見田方の八坂神社

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 ここから堤防上の道は人通りが少ないとみられ、雑草の生い茂るままの細い道となるが正面の住宅を避けるように道は左方へ大きく屈曲している。雑草を分けて曲り切った先の堤防下は葭の茂った沼地であるが、この一角は天明六年(一七八六)の関東大洪水の際堤防が決潰して大沼を形成させた個所である。この沼地に続きこんもりした一叢れの杉林がある。この杉の木立の後ろが見田方(現大成町)の鎮守もと天王社と呼ばれた八坂神社である。当神社と東方久伊豆神社との距離は一〇〇メートルもない。つまり大相模の三鎮守は元荒川を背にして一所に集中的に鎮座している訳である。杉の木立の先の露地を入り、小さな共同墓地を過ぎて住宅地を抜け、右手の細道を行くと八坂神社の境内に入る。

 境内といっても樹木も少なく広場といった感じであるが、その境内の横道に沿って屋根で囲まれた天和元年(一六八一)の地蔵像塔と、天明三年(一七八三)の観音像塔が置かれている。ここも参道は越谷吉川県道のわきに建てられた花崗岩の一の鳥居からはじまるが、両側には杉の若木が植えられ、幾分参道らしい景観をみせている。この参道に沿った左手の生垣をとおして墓地がみえるが、まずこの墓地に入ってみよう。

 今は部落の集会所に使われているとみられる古びた家がある。ここはおそらく江戸時代八坂神社の別当寺であった真言宗来福寺の寺院跡に違いない。墓地に沿った細道の生垣のかたわらに延享二年(一七四五)在銘の塞神と刻まれた石塔がある。しかしこれは庚申塔を改刻したものであると一見して解る。見田方村は江戸時代忍藩の飛地であった柿ノ木領八か村のうちの一村であったが、忍藩は明治元年維新政府による神仏分離令が発せられたとき、国学者平田篤胤の門人木村御綱を登用して神仏分離に関する処置を担当させた。このとき木村御綱は忍藩内に建てられていた庚申塔をすべて破却したり改刻したりしたという。庚申信仰は道教の影響をうけた民間信仰で、必ずしも神仏分離政策とは関係なかったが、篤胤はかねてより「庚申などと申すな 塞神と唱えよ」と説いていたことから、篤胤の門人御綱がこうした処置をとったと思われ、この改刻塞神塔もその一つであったとみえる。なお忍藩であった村々の中にはこうした改刻塞神塔が数多くみられる。

 この改刻塞神塔前の小道をはさみ、宝暦五年(一七五五)の宝篋印塔をはじめ、寛政十一年(一七九九)の普門品供養塔、安永四年(一七七五)の日本廻国供養塔、享保三年(一七一八)の六地蔵塔などがならんでおり、その奥は墓地である。墓地内の墓石には古いものは見あたらないが、奥まった所に嘉永二年(一八四九)筆子中によって造立された墓石がある。墓表の中央には「奉勧請十一面観世音菩薩」と刻まれ、その左右に寺小屋師匠夫妻とみられる人の法名が刻まれている珍しい墓石である。このうち文化四年(一八〇七)没年の宝花高進居士とあるのが寺小屋師匠、俗名林竹之進吉平とみられ、墓石の右面にこの俗名とともに「世の中は 夢やうつゝにすくれとも かへらぬ旅の道はまよハじ」との辞世の句が載せられている。

 さて墓地を出て再び敷石づたいに八坂神社の境内に戻ろう。ここの境内も広場といった感じであるが神殿前の左手には、昭和十五年奉納の御手洗石、その脇に文化八年(一八一一)の改刻塞神塔と、文久三年(一八六三)の猿田彦太神塔がならんでいる。神殿は瓦葺であるが、その造作はかなり痛んでいるようである。また神殿の左手に二つの堂舎が建てられている。大きい方は神輿を納めた神輿殿であり、その手前の堂は地元では通称お稲荷さんと呼んでいる堂舎である。しかしこの稲荷堂の中には天文二十一年(一五五二)在銘の弥陀三尊図像板碑が神体として納められている。ただ欠けた部分もあり完形ではない。

 また神輿殿の傍らにつけられている林の中の小道を下りていくと、突あたりに内池弁天と称されている石の祠がある。その周囲は葭が生い茂った沼沢地となっているが、この沼は天明六年(一七八六)の関東大洪水の際、元荒川の堤防決潰によって生じた沼である。

 その後いつとはなしにこの沼の主は大きな白蛇であり、ここを通ると「オイテケオイテケ」との白蛇の声が沼の底から聞こえるので、人びとは「オイテケ沼」と名付けて恐れ、だれも近よらなかったという伝説が残されている。この弁天の祠もおそらくこの伝説から祀られたものであろう。現在は沼をせばめて左方には住宅が建ちならび、沼地はきわめて小規模なものになっているが、沼に続く右手の神社境内地や堤防づたいの神社裏はにこんもりした杉林になっておりその暗影を弁天池に落として、今でも無気味な妖気を漂わしている一角である。

見田方八坂神社脇改刻塞神塔
見田方八坂神社
見田方弁天内池