八坂神社からまた土堤づたいの道に出て進むと左手の河原が大きく開ける。現今住宅の進出でその広大な河川敷を利用した畑地の一部は新興住宅地になっているが、この河原はもと、元荒川の遊水池として元荒川出水時における水防機能を果してきた河川敷である。現在関東諸河川の上流に貯水用のダムが建設されて、一定の水量が下流へ流されているため水害の危険は少なくなったが、それでも局地的な集中豪雨には、元荒川の水かさが増し、この住宅地もしばしば出水の被害をうけている所である。
この河川敷より一段高い堤防上には椿の並木が続いているが、その椿の木のつきた路傍に側面が大きく欠けた一基の石塔が立っている。正面かすかに「龍大権現」左面に「子孫繁栄如意□□」と刻まれた文字を読むことができる。これはおそらく水神を祀った石祠の一つであろう。この石塔に関しては、江戸時代元荒川洪水の際当所の堤防が決潰したが、その堤防の修復にあたり、再び破堤しないようにと順礼娘を人柱にしたといわれ、この順礼娘を供養したのが当の石塔であると伝えている。
ここから少し進むと関東スーパーという店があるが、その一軒置いた農家の先に右へ折れる幅広い舗装道がある。樹木の豊かな農家の庭先に面して屈曲する古道の一つで、県道までは二、三百メートル程の静かな道である。途中右手の小道を入るとすぐその右手は真言宗観音寺である。近代的な建物に改築された本堂が正面にみられるが、おそらくもとは観音堂と称された堂舎であったようである。境内はよく整地されており新しい墓所が造成されているが古い墓石はみあたらない。なおこの境内地にはこれといった供養塔なども見あたらないが、明暦二年(一六九六)の「百堂順礼供養塔」と刻まれた古い石塔がある。観音寺を出てさらに小道を行くと雑木に囲まれた共同墓地が目に入る。この中には寛永五年(一六二八)在銘等の宝篋印塔墓石が数基、それに寛永十八年在銘の五輪塔墓石などがあり古い墓地であることを窺わせている。
また墓地の傍らの道が二俣となるうち右手の農家に通じる屋敷地の入口に承応二年(一六五三)在銘の「奉供養庚申二世安楽也」と刻まれた板碑型の庚申塔がある。これは江戸時代では市内最古の庚申塔であり市の考古資料文化財に指定されている。この農家の庭先に通じる道とは別に左手に曲る道があるがこれを行くと古びた木造建ての大相模土地改良区事務所、そして近代的な建物に改築された大相模農協及び大相模公民館がありその先は県道である。このうち土地改良区事務所前の広場に、明治三十五年から長い期間大相模村の村長を勤め、教育と産業の振興に功労のあった中村重太郎翁の肖像碑が建てられている。とくに翁はバタリー式養鶏を導入させその鶏卵の産出高では一時全国的に著名となった越谷養鶏の繁栄をもたらせた人ともいわれている。
さて道をもとに戻り雑木並木のつらなる堤防上に出て進む。このあたりの堤には曼珠沙華が群生し、秋の花時には見事な景観をみせる。その左手は工場の建物が続いているが、間もなく工場の棟はつきて畑地を交えた芦の繁茂する河原が広がる。この河原を下りたところに、雑木で覆われた小高い丘をみることができる。かつてはここに浅間神社が祀られていたといわれるが今はない。後世の築山には違いないが、あるいは往昔の古塚であったかも知れない。もっともこのあたりから飯島という地にかけてはもと数多くの塚があり、八塚と呼ばれていたという。なお飯島という地は大相模郷の一村であったが、のち見田方村の内に含まれたようである。この地からは慶長年間葛飾郡二郷半領に移住し飯島村を開発した中村平右衛門などが出ている。この中村氏はその系譜によると、宗大納言知国の末窩で下総国中村郷に住し中村姓を称したが、後年騎西郡大相模郷飯島の地に居住、慶長十八年(一六一三)二郷半領に移住して飯島新田を開発、見田方浄音寺の門徒宗円寺を開基したという。この家には慶長十九年一月に発せられた平右衛門宛ての関東代官伊奈半十郎忠治による新田開発の掟書などが残されている。
さて古塚ともみられる河原の中の丘の先は畑地でありその先は元荒川になるが、ここに水道管を通した鉄橋が架せられている。これは江戸川の表流水を取水した県営庄和浄水場から送水される家庭用水の鉄管で、越谷ライン、草加ラインのうち草加ラインに当たり、越谷の一部と草加地域家庭用水供給の補助的役目を果している。通水は昭和四十九年のことである。またこの鉄管の傍らの空地には蜜蜂が出入りする養蜂箱が多数置かれており、長閑な河原の一角をなしているが、これから先の河原は一かたまりの新興住宅地に開発されている。
再び道を堤防上に戻り少し行くと、右手の堤下葱畑の傍らに小さな石碑がみえる。昭和四年建立になる角石の碑であるが、「地先祖」と刻まれた珍しいものである。地先祖とはもと住んでいた屋敷の持主を指すといわれるが、この石塔はその地先祖を祀ったものであろう。ここから右手は樹木に覆われた農家の裏庭、左手は甍がつらなる新興の住宅地、それから少しゆくとまた河原が広がりやがて道は県道と合する。
こうして今迄たどってきた堤防上の道はここで終るが、この道こそ古くは奥州街道にあたる道であり、かつ明治大正期までは越ヶ谷吉川間の公道として、ラッパの音を響かせて乗合馬車が往復した古道である。しかし昭和の初期堤防上の古道と平行に、新しく越谷吉川県道が開通してからは、人車の往来も少なくなり今は当時の状景を想像することもできなくなっている。それはさておき交通量のはげしい県道を少し行くと、左手の元荒川に架せられた近代的な鉄橋がある。昭和五十年の開通になる中島橋である。それ以前は現鉄橋の下流三、四十メートル下流に昭和五年に架せられた木橋があった。この木橋跡の傍らに、往時を偲ぶかのように今でも昭和五年新川橋開通記念と刻まれた自然石の碑が建っている。この先は元荒川と古利根川の合流点で、ここから下流は中川と呼ばれる。中川に架せられた目の前の橋は、県道の造成にともない同じく昭和の初期に架せられた吉川橋である。この吉川橋の袂にバスの停留所があり、越谷駅行のバスが比較的数多く運行されている。バス停不動尊前から当所までの行程はおよそ三キロメートル、子供連れでも楽しめる堤防づたいの散策コースである。