見田方浄音寺と宇田家

93~95 / 174ページ

原本の該当ページを見る

 越谷駅から吉川行のバスに乗り、大相模小学校前で下車、そこから県道を吉川に向かって二、三十メートルほど行った左手が見田方の浄土宗浄音寺である。浄音寺は山号を解脱山、院号を保鏡院と称しているが、古くは西方山蓮華院浄香寺と称し、忍藩柿ノ木領八か村の割役名主(名主の元締)宇田氏の先祖宇田長左衛門の開基と伝える。

 天正十九年(一五九一)、徳川家康より寺領高一〇石の朱印地を与えられた古刹であるが、明治期に火災にあい、什物をはじめ古文書類ことごとく焼失、その由緒を伝えるものが残存してないという。したがって、これを確かめるすべはないものの、おそらく山号・院号・寺号が今のように改められたのは、他の例から推して家康より寺領を安堵されたときからのことであったろう。

 さて浄音寺の入口に通じる道に入ると黒塗りの山門がある。この山門前に享保二十年(一七三五)在銘の六十六部廻国供養塔が置かれているが、その他供養塔や庚申塔などはみあたらない。正面は本堂でその左手は墓地である。墓地の奥まった一角に旧家の格式を偲ばせる堂々たる墓石がならんでいるが、それは浄音寺開基の宇田家代々の墓所である。この墓石の裏の竹林のもとに、寛永四年(一六二七)、同十年、同十六年、慶安五年(一六五二)などの年号銘が読みとれる五輪塔墓石がならべられており、その一番奥まった竹林の下に年代の読みとれない一石五輪塔の古い型とみられる墓石がある。これが浄音寺の開基者にあたる宇田長左衛門の墓石とみる人もいるが、何時頃の墓石か専門家の鑑定が望まれるところである。

 浄音寺を後にして県道を渡り、そのまま浄音寺の山門にまっすぐ通じる砂利の小道を進むとこの辺りはもと忍藩の出張所が置かれていた所とみられ陣屋と称されている。そして道は、もと陣屋の構え堀であったとみられる小溝とその溝に沿った横道と交差する。この交差した溝ぎわに改刻された塞神塔が立てられておりその側面には「右野道、左吉川道」と道しるべが刻まれている。おそらくもとは庚申塔の一つであったとみられるが、その造塔年代は改刻のため不明になっている。

 溝に架せられた小橋を渡って直進すると、左手は新興の住宅地であるが、右手は構え堀をめぐらしそのなかは樹木や竹林に覆われた宇田家屋敷の広い構内である。この構え堀に沿って行くと宇田家の門前にでる。江戸時代忍藩の飛地柿ノ木領八か村、麦塚・千疋・別府・四条・南百(およそ現東町と川柳町)見田方・東方(現大成町)・柿ノ木(現草加市)、高五、八〇〇余石の割役名主を世襲した家で、その身分格式を象徴したかのようないかめしい長屋門が今に残されている。

 その建築年代はつまびらかでないが、江戸時代の構えをそのまま残したもので、当地域では他に例のない長屋門として市の文化財に指定されている。母屋も部分的には改造された個所もあるが、およそは昔のままの建築様式でとくに式台付玄関や書院造りの客間などは、当時の身分格式を偲ばせるに十分である。当家には文書類の大半は処分されたものの、谷文晃や桂川甫周などの書簡をはじめ、江戸時代使用していた文箱・香櫨・陣笠・刀剣類その他越谷山人の画賛など数々の品が保存されている。現在宇田家の門前は小住宅地で、それに続いて大相模小学校の敷地になっているが、この辺りも古くは宇田家屋敷地の構内であったという。

見田方浄音寺五輪塔墓石
見田方浄音寺宇田家墓所
見田方宇田家長屋門