宇田家脇の舗装道を左に折れて行くと、昭和四十九年に鉄筋四階建に改築された大相模小学校の前に出る。その先に瓦葺の古びた堂舎があってその一角は墓地になっている。ここはすでに東方の地である。この墓地は真言宗観音寺の跡である。墓地には東方村の名主を勤めた中村家代々の五輪塔墓石が整然とならべられている。この中村家家譜によると、当家は平氏千葉の庶流で文明年間太田道灌に仕え、大相模の郷に住したという。つまり中世来の土着の系譜を伝える旧家である。
また墓地の片隅には、寛文七年(一六六七)の観音供養塔や正徳三年(一七一三)の地蔵供養塔などがみられるがその傍らに明治二十八年建碑の自然石による「培根翁墓誌」の碑が立てられている。培根は東方村中村家の養子で東方村の名主を勤めながら寺小屋を開いていたが、明治五年の学制発布の際、いち早く観音寺を教室として公立学校を開設、培根学校と称して多くの子弟の教育にあたり功労があった。培根学校はその後明治十九年西方の進文学校、千疋の千疋学校を合併して東方学校と称し観音寺の傍らに独立校舎が建設された。現在の大相模小学校の前身にあたる。なお培根は明治八年十二月病いのため没している。
観音寺を後にして少し行くと、道は屋敷林に囲まれた家の脇から左にカーブする。この屋敷林の中の家が中村家であり、この家には近世の古文書類が多数保存されている。またこの家の旧家屋は安永元年(一七七二)の建築になるもので、現在見田方遺跡公園に移され文化財として保存措置がとられている。