この中村家の屋敷塀に沿って行くと目の前は一望に開けて水田地が広がる。このなかに舗装された広い道が南に向かって一直線に通じているが、これが見田方遺跡公園に通じる市道である。右も左も水田であるこの道を行くと、国鉄武蔵野線の高架鉄道に接し柱状型の高い煙突が公園地の目標であるかのように建てられているのを見る。昭和四十八年に開設した市営斎場(火葬場)の煙突である。将来は樹木で周囲を覆い、斎場が見えないようにする措置が講ぜられている。その前が見田方遺跡公園である。この公園は昭和四十一年から同四十二年にかけて発掘調査され、その結果古墳後期から古代にかけての住居跡と推定される遺跡が確認されたのを記念して、昭和四十七年頃から造成された公園であるが、現在なお整備中である。
もっとも発掘調査された遺跡は、この公園から少し隔てた北東よりの水田地であるが、用地の買収その他から現在地に設定されたようである。遺跡は平坦な水田地の下、標高およそ海抜三メートルの地表から発見されたが、このような底い土地に人びとの生活が展開されていたということは、現在の地形からみると一見不思議に思われる。しかしそこが当時乱流河川の流送土砂によって形成された他の地所より高い微高地の一角であったのは表層土質の分析からも確認されている。
その後河川の流路に変遷があり、その移動した河川の流路筋(現元荒川流路筋など)が、さきの住居地より逆に高くなる現象があらわれたため、人びとは洪水などの機会に高い地所を求めて移動したとみられる。その残された住居跡からは、竪穴家居の建築資材をはじめ、土師器・須恵器・紡綞車・管玉・砥石・土錘・炉・カマド・籾・桃の実などが出土したが、土器類などの一部は復元されて市役所二階ロビーに展示されている。
また公園内には安永元年(一七七二)の建築物であることが確認される東方村名主中村家の家屋が建てられている。昭和五十年東方の中村家屋敷地から当所に移されて復元されたものであり、同年市の有形文化財に指定されその保存がはかられている。家の構造は部分的には改造された個所もあり、かならずしも当時の建築物そのものとはいえないが、江戸時代における名主宅の建築様式を残した数少ない建造物といえる。ことに式台付玄関や一部書院造りの客間などを具え、当時の名主層の役宅を偲ばせるものとして資料的にも貴重なものである。