大相模中村家

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 見田方遺跡公園を出てもときた道を戻るのもよいが、少し行って左に折れる舗装道を進むのもよい。道の両側は一面の稲田であるが、道がT字路にかかる手前に一軒の農家がとり残されたように建っている。この辺りはもと一面の蓮田で、花の季節には見事な眺めであったという。昭和十年八月、歌人土屋文明は、この蓮田の花盛りを鑑賞するため、見田方の門人宇田美知氏宅を訪づれたが、この蓮田については〝遠々に 風に吹かるる花見れば 心あくがるそのくれないに〟〝青みどろ くれなゐの花にせまる如く 崩れしはなの沈みあへなく〟〝紅は はやくかげりてしろはなの はちすの花の玉とかゞやく〟〝夕かげに 茂れる蓮を掘り立てて 香しき葉を抱え出しぬ〟などの歌を詠んでいた。

 こうした蓮田の情景も今は昔語りになったが、これらを偲びながら大相模の集落に向かうと、手入れの行きとどいた松の古木が茂る屋敷地の前に出る。この家は享保頃から中村姓を称したという旧家であるが、この家の祖は千葉大系図や野与党系図にみられる武蔵七党野与党の一族、大相模次郎能高であることを伝える。かつては囲堀をめぐらせた広大な屋敷構内は、欝蒼とした古木に覆われ、その前は果てしない水田地が広がるという城砦の趣きを具えた屋敷構えであった。さらにこの構内からは文和三年(一三五四)在銘の六字名号板碑(市文化財)をはじめ、貞治六年(一三六七)、応永二十年(一四一三)、同二十九年、寛正四年(一四六三)、享禄三年(一五三〇)在銘などの多数の板碑が古木の下に祀られていたという。

 その後中村家の巨大な家宅は近代家屋に建替えられ、さらに屋敷構内後ろの樹木もことごとく伐りはらわれて住宅団地に開放された。こうして屋敷地の様相は一変したが、それにともない屋敷地の板碑も一部は中村家の墓所などに移された。なおこの家からは万延元年(一八六〇)七七歳で没した神道無念流の達人中村万五郎有道軒がでている(大聖寺の境内の項を参照)。

 さて中村家の墓所は、中村家左脇の囲堀の跡を残す小溝に沿った舗装道を二、三十メートルほど行った左手にある。墓所には寛永六年(一六二九)の年号銘が読みとれるものをはじめ中村家歴代の五輪塔墓石が整然とならべられている。また墓所の奥まった一角に、前記の中村家板碑のうち三基が安置されているが、他の板碑の所在はきいていない。

 このほか西方領分の集落内に田向墓地と称する共同墓地があり、この墓地の入口に堅固な石屋根囲いの祠がある。このなかにも応永九年(一四〇二)と天文二十三年(一五五四)の十三仏板碑が文政四年(一八二一)の庚申塔とともに、その下部がコンクリートで固められて納められている。

 こうして新興住宅が多少混在しているとはいえ、昔ながらの集落を中心とした落着いた雰囲気のただよう大相模集落の散策を楽しみながら、県道に出ると近くにバスの停留所がある。行程およそ六キロメートル、健脚向きのコースであるが、見田方遺跡公園見学の行き帰りには、この集落に入り、そこはかとなく歩いてみるのも一興であろう。

東方中村家
東方の農家