このコースは旧大相模村のうちその東南部に位置する南百・四条・別府・千疋の集落を中心とした散策コースである。これらの集落は中川(古利根川)に面して古くから開けた地であり、それぞれの地名に意味がこめられているとみられるが、現在住居表示は東町と改められている。新しい住宅がふえているとはいえ、まだ古い集落を中心とした静かな地域であり、その集落のはずれは広々とした水田地になっている。
さて越谷駅前から吉川行のバスに乗り、見田方という停留所で下車するとそこにトタン板で柵をした共同墓地がある。墓石は多い方ではないが中に寛永六年(一六ニ九)、同十五年正保二年(一六四五)などの年号が読みとれる小さな一石五輪塔墓石が数基みられる。越谷地域の古い墓石には宝篋印塔墓石が多いが、古い年代の五輪塔墓石が集中しているこの墓所はそれなりに特徴があるといえよう。また慶長十八年銘の板碑型の墓石もあるがこれは後に造立された供養墓石であろう。
この墓地から少し行った右手に一叢の木立の茂みがあり砂利の小道が通じている。かつての農道ともみられるが、耕地に出る手前に物置小屋のような堂舎がある。地元では大六天宮と呼んでいるが、この堂舎の傍らに思いがけなくニメートルほどの大きな宝篋印塔が建てられているのをみるであろう。寛永二十年(一六四三)造塔の日待請供養塔である。その台石には完倉兵十郎・浅見三九郎・横吉十郎川・植竹藤右衛門・中村治右衛門・大月源右衛門・莇見喜左衛門・宇佐美新左衛門・植竹与右衛門の九名の氏名が刻まれている。おそらくこの人びとは、当地域の草分け百姓の系譜を引く重立った村人であったろう。
またこの宝篋印塔の傍らには天明二年(一七八二)の庚申塔を改刻した塞神塔が置かれている。その右面には「左のじ道」左面には「右こしがや道」と道しるべが付されているが、それから推すとこの塞神塔は反対側の路傍に立てられていたものに違いない。この野道をゆくと目の前は大相模の水田地帯であるが、田の中の道を左に折れて行くと南百の集落に入る。現在この道の両側は新興の住宅団地になっている。途中「身代り地蔵尊」との偏額が掲げられている地蔵堂があり、清正公別院という着板が立てかけてある。例年七月土用の丑の日、灸を入れたほうろくを頭に載せ、無病息災を祈願する、いわゆる「ほうろく灸」を行う所である。戦後復活した行事といわれるが、ほうろく灸をうける信者が年々増大していると聞く。
やがて道は元荒川堤防上の県道に出るが、その向かいは南百の鎮守水神社である。入口に花崗岩の鳥居と木の鳥居が建っておりさほど広くない境内は、おそらく越谷行バスの通勤客が利用しているとみられる自転車で埋まつている。銀杏の大木の下に小じんまりした瓦葺格子戸造りの神殿が建てられており、その横手に宝永四年(一七〇七)と安永五年(一七七六)の庚申塔、慶応四年(一八六八)の「奉納水神天尊宮」と刻まれた石塔、それに大正五年奉納の御手洗石などがならべて置かれている。
当社の祭礼は七月十八日であるが、この日行われる百万遍行事は、かつてはその盛大さで知られていた。これは前年の九月二十日に奉納された「蛇より」と称される直径三〇センチ長さ五メートル余の蛇をかたどった藁のより縄を神前から下げてこれを若者がにない、村中百万遍を唱えながら泥にまみれてねり歩いた後、中川に「蛇より」とともに飛びこんで身を清めるという行事で、大変な賑わいをみせたという。
水神宮の後ろは、元荒川と古利根川の合流点で、ここから中川と呼ばれているが、かつてここに渡船場が設けられていた。通称南百の渡しという。この南百の地名は「難渡」とも書かれ、元荒川・古利根川合流路のきわめてむずかしい渡し場であったことからこの地名が生じたとの説もある。
この水神社前の県道をはさんだ向かい側は墓地である。坂を下りて行くと瓦葺の古びた堂舎がある。ここはもと珠光山宝性院と称された真言宗寺院の跡である。堂前には元文五年(一七四〇)と万延元年(一八六〇)それに年号不詳の庚申塔がならべて置かれている。墓地は最近舗装された道によって堂舎とは分断された形になっているが、もとは堂舎も墓地も寺院の敷地内にあったものであろう。墓地の入口に寛延元年(一七四八)の地蔵供養塔と、小屋囲いの六地蔵が置かれているが、その他の供養塔はみあたらない。しかし墓地の中には寛永五年(一六二八)同九年、同十一年などの年号銘が読みとれる宝篋印塔墓石などもあり古い墓地であることを窺がわせている。
宝性院跡を後にして県道に出ると道は二俣に分かれる。左方は吉川橋を渡って北葛飾郡吉川町に出る道であり、右方の直道は八条(現八潮市)方面に通じる奥州道とも称された中川(旧利根川)堤防上の古道である。この道は現在舗装され県道平方・東京線と称されて車の往来もやや多いが、越谷・吉川県道ほどではない。左手は中川の河川敷でもとは蘆荻の生い茂る草地であったが、現在その一部は児童用の運動場になっている。いづれこの河川敷は整地され緑地公園に造成される計画があるようである。また元荒川と古利根川が合流した吉川橋下の中川からはその水量も四季を通じて豊かとなり、河畔には釣舟などの舟が繋留されており水郷の趣きをそえている。
この辺りはすでに四条の地であるが、吉川橋袂からの右方は一団の新興住宅地になっている。この住宅の中に四条村の世襲名主飯島丘兵衛家の墓所が石塀の囲いのなかに残されており、飯島家歴代の墓石が整然とならべられているが、飯島家の古い先祖の墓石は四条妙音院の墓地にある。なおこの四条の地名は一条二条という条里制の遺名ともいわれるが、その遺構が調査されないまま耕地整理が進められたため、はたして条里か否かは確認できなくなっている。
それはともかく吉川橋袂に建つ一団の住宅地を過ぎると、堤防上の道は一本の立木もなく、右は畑地左は河川敷の殺風景な感じの眺めとなる。これは四条などの集落が堤防上の道から少し離れた道路に沿ってつらなっているためである。この堤防道を少し行くと最近石垣の近代的な排水堀に改められた四条落しがある。この落しに沿った道を下りて行くと、右手に墓地が見える。江戸時代猿青山という珍しい山号をもった真言宗妙音院跡であるが、今は堂舎もなく墓地だけが残されている。この墓地も、かつては草木が繁茂するにまかせた荒れはてた感じの墓地であったが最近整地され小ぎれいな墓所になっている。墓地の入口とみられる所には、元禄十六年(一七〇三)造塔の大きな角石の念仏奉誦供養塔が建てられており、それにならんで六地蔵や、宝永四年(一七〇七)の大乗経典六十六部廻国供養塔、それに元禄十六年と延享四年(一七四七)の青面金剛庚申塔、天保十二年(一八四一)の馬頭観世音塔などが建てられており、この後ろの盛土の上に、寛延四年(一七五一)の造塔になる大きな宝篋印塔がそびえるように建っている。
墓地の奥に進むと、そこには四条村の名主飯島家の先祖の墓石が数基ある。いづれも寛永九年(一六三二)、同十二年などの年号銘が読みとれる宝篋印塔墓石あるいは板碑型の古い墓石である。このほかここから少し離れた墓所にも寛永八年銘の宝篋印塔墓石などがみられ、古い墓地であったことを偲ばせてくれる。なお飯島家は「四条の丘兵衛様」と称され、古くからの世襲名主で当地域切っての大地主であったが、その屋敷は今はない。またかつて妙音院境内に頭ばかりの聖徳太子像を祀った太子堂があったが、ことに霊験あらたかな太子堂として信仰をあつめ、参詣する信者が絶えなかったという伝えが残されている。しかしこの太子堂も同所に保存されていたという永享十三年(一四四一)と文明十年(一四七八)在銘の青石塔婆とともに今はなくなっている。
妙音院跡を後にして再び堤防上の道に出て少し行くと右手の堤下に神社が見える。四条の鎮守で今は天満天神社と称されているが、江戸時代は山王社と称していた神社である。天保四年(一八三三)建立による花崗岩の鳥居のほか、境内には明治四十二年の御手洗石や昭和八年の富士登山記念碑などの石碑が数基建てられているが、庚申塔などの古い供養塔はみあたらない。ただし境内前の畑地には梅の若木が植えられているが、将来見事な梅林になるのが楽しみである。