ここから中川を横断する鉄橋が目の前に現われる。昭和四十八年開通になる国鉄武蔵野東線の鉄橋である。この高架鉄道の手前右手の道を下りた所に別府(現東町)の真言宗金剛寺がある。もと稲荷山観音院慈眼寺と称しその開山僧は天文十八年(一五四九)の没年を伝える古刹の一寺院であったが、おそらく明治維新期の神仏分離令のときであろう四条の妙音院などと合体し、その寺号も金剛寺と改められたとみられる。境内に入った所に享保元年(一七一六)の奉納になる六地蔵像があるが、その他供養塔や古い墓石などはみあたらない。おそらくもとは祈願寺であったため境内に墓所を設けなかったのかもしれない。当寺には嘉吉二年(一四四二)と文明十年(一四七八)在銘の板石塔婆や天文十八年(一五四九)の印信血脈その他江戸期の文書類が残されている。
なお別府の地名は条里制にもとづく新開の地別符田から名付けられたといわれるが確かなことは不明である。もとは民家九戸の小さな村であったが、この区域の土地は他より高くほとんどが畑地であった。それが明治期以降集落を除いた畑地は瓦屋が瓦の材料としてその土を抜きとったがそのあと水田に変えたといわれ、今は一面の水田地になっている。また金剛寺前の道からこの水田地に出た十字路の傍らに、灌木に覆われた小さな塚がある。この塚の中には寛文二年(一六六二)在銘の二童子が刻まれた庚申塔が建てられているが、これは市内で発見されたうち江戸時代では二番目に古い庚申塔である。
道をもとに戻り武蔵野東線の鉄橋をくぐると堤防上の道路ははげしく曲折し、千疋(現東町)の集落に入る。その左方の地は、もとは中川の遊水池で広大な河川敷の一部であったが、今は畑地の中に住宅が建てられ、それにともない幾筋もの新道路がつけられており、河川敷とは見えなくなっている。しかし堤防上の道には古道の名残りともみられる一叢れの古木がつらなり街道らしい景観をみせている所もある。こうしておよそ鉄橋より三五〇メートルほど行った所の右手の道を下りると、比較的規模の大きな墓地に出る。もと別府慈眼寺の末寺利剣山東養寺と称した真言宗寺院跡である。当寺は明治六年千疋学校の教室に利用されたが、今はその堂舎はない。墓地の入口とみられる所に、新四国八十八箇所の内六十四番と刻まれた順礼札所標示の柱状石があり、その傍らに小屋囲いの観音堂と勢至堂がある。このうち勢至堂の内には天正三年(一五七五)在銘の珍しく完形のままの二十一仏青石塔婆が納められている。この堂に続き宝暦四年(一七五四)の日本廻国供養塔、明和七年(一七七〇)の六十六部供養塔、弘化二年(一八四五)の女人講中による地蔵像塔一対、その裏は無縁仏の墓石が置かれ、その中に延享二年(一七四五)造立の宝篋印塔が建てられている。また墓地の小道をへだてて元禄七年(一六九四)、宝暦八年(一七五八)、明和二年(一七六五)、寛政四年(一七九二)の庚申塔や安政二年(一八五五)の普門品供養塔、それに明和四年の地蔵供養塔などが一列にならべられている。また墓石には古い年号銘のものが多いが、なかには寛永六年(一六ニ九)、同十年在銘などの宝篋印塔墓石が数基ほどみられ、ここも古い墓所であることを窺せわている。
この墓地の横道をへだてた小高い丘に奥殿を具えた瓦葺の神殿がみえる。千疋の鎮守伊南理神社である。石段を昇ったところに伊南理大神と記した額を掲げた朱塗りの大鳥居があり左手の空地に明治三年の塞神塔、寛保元年(一七四一)と文化八年(一八一一)の水神宮、天明三年(一七八三)の天王宮と刻まれた石祠がならべられている。また神殿の前には大正十年の御手洗石や昭和五年の百度石、明治四十二年の御神燈、それに同三十九年奉納の石の狐像が台石の上に載せられた石塔一対置かれている。さらに神殿の左手には延享四年(一七四七)の天満天神宮、宝暦五年(一七五五)の厳島大神宮、文化三年(一八〇六)と明治二十八年の稲荷明神宮、弘化四年(一八四七)の疱瘡神宮と刻まれた石の祠が置かれている。境内は草もよく刈られて綺麗に整頓され、恰好な子供の遊び場になっている。
ここから道を西に向かい千疋の集落を抜けるとその前は一面の水田耕地である。今は武蔵野東線の鉄道をはじめ平坦な水田のはるかに昭和四十九年開校の県立越谷南高等学校その他工場の建物が視界を遮ぎっているが、もとは果しなく続く八条領の水田地帯であった。かつては農道の一つであった集落と平行する舗装道を進み武蔵野線のガードをくぐると十字路に出る。その左手は四条新田の集落で、その先に柱状型の高い煙突がみえる。ここは越谷市営斎場でその前の一角は見田方遺跡公園である。
十字路の道をそのまま直進すると道端の畑地の中に前記のとおり寛文二年の庚申塔がある。右も左も田や畑である道は間もなく家並がつづく四条の集落に入る。しかし多くの家は近代的な家に建て替えられ、その間あいだに工場や店などもあって集落の古道につらなる農家の家並みといった感じは薄らいでいる。それでも舗装道をはなれた小路を行くと、路の辻に、「西ふどう道 南そうか道」と道しるべが付された慶応元年(一八六五)の文字庚申塔などをみることができる。
やがて最近石垣で築かれ四条幹排路と称されている排水路にかかる石橋を渡ると、石塀で囲まれた小さな共同墓地がある。この裏は皮革工場になっているが、ここがもと四条の名主飯島家の屋敷跡である。道は間もなく南百の地となり坂を昇って県道に合わさる。ここからバス停吉川橋までは五、六十メートルほどである。見田方からの全行程およそ五キロメートル、少し疲れる道程であるが、休む場所に不自由はない。