四町野迎摂院

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 越谷駅から線路に沿った道を北へおよそ三〇〇メートルほど行き突当りのT字路を左に折れて東武鉄道のガードをくぐると四町野(現宮本町)の集落に入る。右手はいくらか新興の住宅も入り交ってはいるものの、元荒川に沿った古くからの集落である。左手は水田が埋立てられて造成された新興住宅地で、所々に空地が目立つ。しばらく行って信号のある十字路を右に折れると県道越谷浦和線で、県道に沿った一筋の流れは元荒川、その対岸は近頃名所になった北越谷の桜堤であり、そこを左に折れた所が真言宗越ヶ谷山神宮寺迎摂院である。

 迎摂院は天文四年(一五三五)の没年を伝える僧賢栄法印による中興開山といわれる。この一角は在家と呼ばれる古い集落で、四町野の地名は条里制の遺名ともみられている。しかしその当否は条里遺構の調査が行われなかったので不明ながら、四町野村は慶長年間造成された越ヶ谷宿の元郷で、迎摂院は古くから越ヶ谷郷の総鎮守越ヶ谷久伊豆明神社や越ヶ谷中町の鎮守浅間社の別当寺であった。天正十九年(一五九一)十一月、その由緒により徳川家康により寺領朱印地高五石を与えられたが、なお江戸時代を通じて越ヶ谷久伊豆明神社の神官兼掌を許された。本末関係では嶋(末田村現岩槻市)金剛院の末寺に置かれた。安政五年(一八五八)には檀林格薄黄色僧衣三色の寺格を与えられ、周辺の名刹として寺運の興隆をきわめた。しかし明治維新時の神仏分離令で打撃を蒙ったのは迎摂院も他の寺院と同様である。

 その後明治五年の学制発布で所々に私立の学校が設けられた。このうち越ヶ谷地域の公立学校ははじめ大沢町に啓明学校が設けられたが、間もなく四町野迎摂院に移され四町野学校と称された。やがて大正十二年の関東大震災にあたり、それまで偉容を誇っていた大迦藍はすべて倒壊するに至った。このうち本堂の再建は実に昭和四十一年を待たねばならなかった。さらに同五十四年四月、庫裏・客殿が再建され、近隣では数少ない堂々たる構えをもった寺院が再現された。なお当寺には応仁元年(一四六七)や永禄七年(一五六四)在銘などの青石塔婆が数基あったといわれるが現在不明である。

 さて迎摂院の山門前には元禄十三年(一七〇〇)、享保七年(一七二二)、文化三年(一八〇六)の青面金剛庚申塔、それに寛政十二年(一八〇〇)の月山湯殿山羽黒山の供養塔などがならべられている。また山門をくぐった右手の墓地の傍らに文政四年(一八二一)の光明真言講中造塔による大きな供養塔と、石垣で盛土された上に年代不詳の宝篋印塔が建てられている。墓地の中は整地され新しい墓所が造られているが、古い墓所のなかには寛永の文字が読みとれるものをはじめ、承応・寛文など迎摂院住職代々の五輪塔墓石がみられる。さらに左手の広い境内地の一角に集められた無縁仏墓石群の中にも、寛永年間の宝篋印塔墓石が五基ほど、その他古い五輪塔墓石などが交っている。

四町野迎摂院