神明下会田家墓所

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 迎摂院を後にして越谷浦和県道を北に進むのもよいが、ここは道幅も狭く交通量もはげしいので、車の往来が煩わしいと思うときは裏道を行くのもよい。およそ二〇〇メートルほど進むとこのあたりは神明下村(現神明町)の領分となるが、幼稚園の先の小路を曲がると、元和から寛永年間にかけて、出羽地区のうち綾瀬川流域の沼沢地であった越巻(現新川町)、七左衛門(現七左町)、大間野地域の新田開発にあたった会田七左衛門政重家の墓所に出る。ちなみに七左衛門村の村名はこの地の開発者会田七左衛門の名をとった村名である。またこの墓所は江戸時代月向山政重院と称し、寛永十九年(一六四二)政重が元和八年(一六二二)に没した先妻慶与禅定尼供養のために開基した真言宗寺院であったが、幕末期に火災にあい墓地だけが残された。もとは樹木に覆われた淋しい地であったが、その周辺はすべて住宅地に開発され、今はこの墓地の周囲は宅地に囲まれた形になっている。

 なおこの会田家の祖七左衛門政重は岩槻城主太田氏房所縁の者であったが、天正十八年(一五九〇)太田氏没落のとき越ヶ谷郷の土豪会田出羽氏に拾われて養子となったという。成長の後神明下村に分家を創立させたが、のち関東代官伊奈半十郎忠治配下の地方代官を勤め、出羽地区の開発や検地奉行などを勤めた。寛永十九年(一六四二)、年六十二で没したが、その子孫も関東郡代伊奈氏に仕え、赤山陣屋構内(現川ロ市)に屋敷地を与えられるほどの有力家臣の一人に数えられていた。その後寛政の初年頃から世継ぎをめぐっての伊奈家内紛の際は、妾やおの子岩之丞を跡目に立てようとする伊奈右近将監忠尊に対し、養子半左衛門忠善を立てて御家の建てなおしをはかろうとする伊奈家の重臣永田半太夫らに同調し、杉浦五太夫や豊島庄七らとともに伊奈忠尊の横暴を責めて幕府にその善処方を訴え続けたが、寛政四年三月、忠尊の様々の不埒が幕府によって咎められ、ついに伊奈家は改易に処せられた。このとき会田氏が神明下村・七左衛門村・越巻村に所持した田畑屋敷地二三町五反五畝一四歩が伊奈家借入金の抵当に入っていたため御払い入札に処せられた。おそらく会田七左衛門はこのとき入札処分をまぬがれた政重院の敷地に居を移したものとみられ、会田氏子孫の屋敷は今なおこの墓地の前にあって存続している。この家にはすでに史料類はないが、政重院の起立や七左衛門地区の開発などに関する記録「神明縁起書」や過去帳などが保存されている。

 さて会田家墓地内はよく整地され、会田家歴代の墓石が数列にわたって整然とならんでいる。ことにその列の中央には、元和八年(一六二二)没年の「会田七左衛門尉政重妻女」、寛永三年(一六ニ六)の「会田七左衛門尉政重第三息女」、明暦四年(一六五八)の「会田七左衛門尉政連妻女」と刻まれた巨大な角石による墓石がみられる。また後列の墓石の中に、享保十五年(一七三〇)没年の「会田政永嫡男仕伊奈家」とある会田政博の墓石があるが、おそらくこの政博は享保元年(一七一六)から同七年にかけて伊奈家の地方掛りを勤めていたとみられ、幕府の通達(触書)などの添書には、しばしば伊奈家の重臣冨田吉右衛門とともに会田七左衛門の連署がみられる。年代からおしてこの七左衛門が当の政博とみられる(西方村触書旧記)。

 また最後列の墓石のなかに漢学者亀田興の撰による自然石に刻まれた「素月居士墓銘」の碑がある。この素月居士とは寛政四年伊奈家改易の際田畑屋敷地を入札に付された伊奈氏の家臣会田七左衛門重昌の雅号であり、碑銘によると伊奈家没落の後当所に隠棲し、四季を通じて栄枯盛衰をくりかえす草花をこよなく愛し、ひそかにその余生を送ったようである。このほか墓地には宝暦四年(一七五四)造立の宝篋印塔や、地震などで解体したとみられる五輪塔墓石などの片石が多数置かれているが、あるいはこのなかに寛永十九年に没した会田七左衛門政重の墓石が交っているかも知れない。

 またこの会田家墓地に隣り合った手前の墓所は、会田七左衛門家からの別家で、同じく関東郡代伊奈家の家臣であった金沢家の墓所である。もと金沢家の屋敷は当所より五、六十メートルほど越ヶ谷よりの元荒川堤防わきにあったが、今その子孫は東京に居住する由である。この墓所の中に文政九年(一八二六)三月六二歳で没した俗名金沢縫殿尉祐之とある墓石がある。文化十一年(一八一四)二月の末『徳川実紀』の編さん者で著名な文化人成島司直が、桃の花見に越谷を訪れたが、越ヶ谷町のはずれ元荒川にかかる橋の手前を左に折れて少し行った川沿いの〝祐之〟の屋敷で昼食を馳走になり、祐之とともに小舟に乗って対岸(現北越谷)に渡り、見事な桃花を心ゆくまで観賞したことが司直の紀行文「看花三記」に収められている。したがって成島司直の友人〝祐之〟は、司直の紀行文にあるその場所などから、金沢祐之とみて間違いはなかろう。このほか墓地の中に昭和十年の御霊前と刻まれた御手洗石がある。この裏面には、「海保八十之助、金沢家十二代縫之輔祐盈ノ男、海保家ヲ相続東京神田区松永町ニ糸商ヲ創業云々」と刻まれている。

神明下会田家墓所