大房浄光寺

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 会田家と金沢家の墓所を後にして元荒川べりの県道に出ると、昭和四十五年に新しく架せられた神明橋という鉄橋が目の前に見える。ここから道は県道越谷浦和線と越谷岩槻線とに分かれるが、このうち越谷岩槻線は岩槻に通じる古くからの街道筋である。この両道分岐点にあたる神明橋の袂の堤に数基の石塔が置かれている。神明橋架橋の際当所に片付けられたものだが、その辺りがもと神明下村の鎮守神明社地であったようである。現在神明社の祠は県道越谷浦和線の傍らに移されている。なお堤下の石塔は明和五年(一七六八)の西国坂東秩父観音順礼の供養塔、天保十年(一八三九)の猿田彦大神塔、年代不明の庚申塔などであり、これらはもと神明社の境内に置かれていたものであろう。

 神明橋を渡ると昭和三十六年から区画整理がはじめられ同四十三年に完成、その名も北越谷と改称された大房と一部大沢にかかる地である。もとは桃や梅の名所として文人墨客が訪れ、二代目広重によって富士三十六景の一つにも画かれた所である。ちなみに当時の状景を成島司直の『看花三記』によってみると「桃の花ならぬはなし、枝をまじへ陰をならべ岡も野もただ紅の雲の中を往来する如し」とその見事さに感嘆していた。今は舗装道路が縦横に貫通され、すべて住宅団地に変ったので、その面影をしのぶことはできない。ただ北越谷を半円形に取巻く元荒川の堤上には、昭和三十一年に植木された桜が見事に育ち、桃に変って桜の名所になりつつある。それはさておき神明橋から直線に走る広い道は東武鉄道北越谷駅に突き当る行きどまりの道である。この道をおよそ一〇〇メートルほど行った左手に熊野山観音院浄光寺と称する真言宗寺院がある。

 開山の年代は不詳ながら慶安元年(一六四八)先規にもとづき寺領朱印地高五石の朱印状が交付されている。もっともこの朱印地は浄光寺の管理に置かれた大房薬師堂の堂領として与えられたものであるが、浄光寺も古刹の一つであったのは確かである。ちなみに昭和五十年三月、浄光寺本堂裏の墓地造成地から「開通元宝」「皇宋通宝」「永楽通宝」など四八種の中国古銭が一八二八枚出土した。この古銭は何時誰が何のために埋蔵したか不明ながら、少なくとも中世浄光寺に本拠を構えた有力者が、何かの事情で埋蔵したことは確かであろう。

 また当地域は荒川(現元荒川)の曲流地点でとくに荒川の流送土砂が広く堆積され、そのほとんどが畑地であった関係から、前記の通り桃や梅の栽培が盛んであった。このうち梅は古木になると梅実の収穫が減少することから、つぎつぎと古木を伐採し新木に植え変えるのが普通であった。そこで明治三十五年これら伐りとられる古木を浄光寺を中心とした地域に移植し、観光を目的とした越ヶ谷古梅園が開園された。このなかには株まわり一メートル前後の古木もあり、その樹姿によって「天の橋立」「雲龍梅」「日の出梅」などの名が付された。園内には休憩所としての〝あずまや〟二棟、緋毛氈を敷いた床几二十脚、花の季節には数軒の出店が店を構え写真絵ハガキも売出された。

 これには東武鉄道も観光宣伝に努めたので梅の名所として広く知られるようになったが、明治の俳人正岡子規も当地を訪れ「梅をみて野をみてゆきぬ草加まで」との句を残したといわれる。その後古梅園の経営は大正七年から浄光寺が引き継ぎ、昭和十年頃から東京の文人や俳人を招待した東武鉄道主催の園遊会が開かれるようになった。このとき訪れた俳人高浜虚子は、「寒けれど あの一むれも梅見客」の句を詠んでおり、この短冊は今でも浄光寺に保存されている。

 戦後農地解放が行われ浄光寺境内を除いた周辺の梅林地はすべて解放の対象となったが、しばらくはもとのままの梅園で存続した。そして昭和二十六年からは古梅園の開花期に別名ハゲ大会と呼ばれた光頭会が開かれたが、このうち数人の人気女優を招いて行われた光頭会の記録映画は、ブラジルなどでも上映され、大房古梅園の名は遠く海外にも知られた。しかし昭和三十五、六年を境に都市化の波が当地にも波及し、浄光寺境内を除いた梅園はすべて住宅に変えられた。しかも浄光寺の古梅も次々と枯れて、今は往時の面影は全く失われるに至った。

 さて県道北越谷駅西口線から松の大木を目当に浄光寺に入ると、山門前に寛延三年(一七五〇)の念仏講中その他によって造立された六地蔵が、あざやかな赤い帽子と赤い前垂を着せられて置かれている。その他宝篋印塔や庚申塔などの供養塔がみられないのは、その理由が不明ながらこの寺の特徴ともいえる。おそらく古梅園当時その庭園にふさわしくないとして他に移されたものであろうか。それはともかく山門をくぐった右手が鐘撞堂で昭和四十三年鋳造の鐘がかけられている。鐘撞堂の傍らに二株の大松があり、その下に小さな碑が建てられている。寒けれど云々の高浜虚子の句を刻んだ昭和五十年建碑による句碑である。

 正面の鉄筋による本堂は昭和四十二年の改築によるものである。もと古梅園で名を馳せた境内地も今は梅の古木はみあたらないが、梅の若木が多数植えられ、その間に手入れの行きとどいたつげや槇の木、それに岩石などがほどよく置かれ、さながら庭園を思わせる落着いた風情を偲ばせている。もとは庫裏裡の前に大きな池があり、無数の緋鯉などが泳いでいたが、都市化が進むにつれ水が枯れ、今はその形の一部を残した窪地があるだけである。また境内の左手は、規模の大きな墓地になっているが、ここもよく掃除が行きとどき、樹木も少ないだけに明るい感じの墓所である。新しい墓石が多いが寛永九年(一六三二)在銘の宝篋印塔墓石をはじめ承応・寛文などの古い墓石もみられる。なかには墓石の側面に辞世ともみられる〝五月雨の 空にぬれつゝほととぎす なき行かたの 名残をぞ思ふ〟などの歌が刻まれたものもある。

神明橋下の石塔
北越谷元荒川堤防の桜並木
大房浄光寺
越ヶ谷古梅園(大正期)
高浜虚子の短冊