大房稲荷神社

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 浄光寺を後にしてブロック塀で遮ぎられた墓所横の道を少し行くと桜並木の元荒川堤である。昭和四十一年架設の出津橋という木橋があるが、これを渡ると旧荻島村出津の地で、目の前の近代的な鉄筋の建築物は文教大学である。昭和五十二年までは昭和四十一年開校の立正女子大学で、学生は女子で占められていたが、今は男子学生も在学している。しかしやはり女子学生が多数を占めており、北越谷の街はこれら女子学生の登校下校における三々五々の群により華やかな趣きをかもし出している。この文教大学の通学路である木橋手前の道を右に折れていくと、元荒川堤を背にしたブロック塀に囲まれた神社がある。大房の鎮守稲荷神社である。やや広い境内地は樹木も二、三本しか残されてなく広場のようにがらんとした感じである。昭和八年造立の花崗岩による鳥居をくぐると、右手の塀ぎわに文政八年(一八二五)の猿田彦大神塔、元禄六年(一六九三)と天保十二年(一八四一)の青面金剛庚申塔、天保十五年の猿田彦大神塔とともに、その下部をセメントで固めた永禄元年(一五五八)在銘の二十一仏板碑がならべられている。もとは堤下の河原に立てられていたものであるが保存のため当所に移されたものである。またこれらの石塔のうち天保十五年の猿田彦大神塔の側面には、明治三十二年東武鉄道建設請負人遠藤君蔵配下の人びとが当所に再建した旨のことが刻まれている。おそらく東武鉄道建設工事のとき、鉄道敷地のなかにあったものを改めて神社内に移したものであろう。

 拝殿は奥殿とともに補修され、屋根は瓦葺になっているが古い建造物のようである。また神殿の傍らの空地には、元禄九年(一六九六)の水神宮、正徳四年(一七一四)の弁財天宮、文政十三年(一八三〇)の宮号不詳の笠付石祠がならべられている。これにはいづれも大房の別当千手院と刻まれているが、千手院の所在も今は解らなくなっている。このほか嘉永二年(一八四九)造塔による樗宮と刻まれた石塔がある。樗とは一種の悪木で無用のものと解されているが、どのような意味をもった神であるかつまびらかでない。

 すでに北越谷は区画整理が完了し、すべての地が住宅地に化したため、昔の面影を残す所は少なくなったが、このうち住宅に囲まれた大沢町分の一角に規模は小さいが、最近まで三メートルほどの砂丘状の高地に仙元神社が勧請されていた。この浅間宮とも記される仙元宮の由来書によると、下総国葛飾西川辺(大沢村)の住人深野源三郎が、長元三年(一〇三〇)富士山へ登山した際、大沢の滝から五彩の光を放つ影向石を持ち帰り、当地に浅間宮を勧請したのがはじまりで、この地を大沢の郷と呼んだ。浅間宮は古くは近辺大沢村・大房村・大林村・大柴村(大吉)・大里村・沼谷新田(弥十郎)・蒔里村(間久里)七か村の総鎮守であったという。この是非はつまびらかにできないが、江戸期にはこの地は浅間山と称された規模の大きな松林で、ときには大沢町地借店借層の困窮者が数百人その生活の保償を求めて集合する場になったり、大きな賭場がこの山林で開かれ、喧嘩の果てに殺人事件に発展するということが起きた場所である。今はこの浅間社は他に移され、わずかに残っていた丘もくずされてマンション建設予定の敷地として平らな空地になっている。

 越谷駅からのこれまでの行程およそ直線で三キロメートル、花の季節には梅や桜の花見を兼ねた恰好の散歩道である。帰りの乗車駅北越谷西口の駅前広場は通勤者の自転車で埋まっている。今のところ北越谷駅西口にはバスの便がないが、将来バス路線の西口乗り入れが望まれている。

大房稲荷神社
大沢浅間社(今は撤去されて平地になっている)