大房薬師堂

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 東武鉄道北越谷駅の西口を出ると、越谷ではもっとも高層の建築物の一つである赤茶色の東武サンライトマンションが右手にそびえている。このマンションを右に見て少し行き右折して進むと元荒川の堤防に出る。この辺りから元荒川の上流は大きく左方に曲流して堤下に河原が広がるが、この堤に接近して通じる街道がもとの日光街道である。この街道に接した堤に寛政三年(一七九一)造立になる青面金剛と刻まれた文字庚申塔が一基自動車の風塵をかぶって立っているが、その側面には「左じおんじ・のじま道」とあり道しるべを兼ねている。

 また広い河原の一部は北越谷第五公園と称される市営の公園になっているが、その向こうの松林は宮内庁埼玉鴨場の構内である。街道づたいに一〇〇メートルほど進み、左手の露地を入るとその突当りは大房薬師堂である。薬師堂は、大同二年(八〇七)の創建とも伝えられ、「鵜の森の薬師」あるいは「大江りの薬師」とも称されていた。つまりこの辺りに海が入りこんでいた古い時代、当所は入江に面した樹木の生い茂る陸地で、鵜の鳥がこの森に群生していたことから、いつか〝大江り〟あるいは〝鵜の森〟と呼ばれたと解されている。それを裏づけるように当所は小高い丘をなしているが、以前丘の大半がくづされその土が何処かに運ばれたと語る人もいる。おそらく宮内省(現宮内庁)埼玉鴨場建設のときのことであったかもしれない。

 いづれにせよ慶安元年(一六四八)先規により大房浄光寺に与えられた高五石の朱印地は、当の薬師堂領としてであり、古くは由緒のあった寺院の一つとみられるが、記録などは全くなく、今はその由緒をたづねる術はない。

 さて薬師堂に通じる小路入口の片隅に天保三年(一八三二)の猿田彦大神塔が置かれているが、少し行った石塀の傍らにも宝暦十四年(一七六四)の大乗妙典六十六部供養塔その他くずれた台石や笠石などが置かれている。また右手の路傍には文政十年(一八二七)の建立になる「日光月光敷石供養誌」と刻まれた自然石の碑があるが、この裏面には「かとにたつ 娑婆と冥途の供養石」と歌が刻まれている。この路の正面は樹齢およそ四〇〇年と推定されている大銀杏を前にした小屋囲いの堂舎であるが、このなかには享保三年(一七一八)奉納による青銅製の五体の如来像が納められている。高さは一・六メートルほとんど元形のまま保存されており、これを五智如来と呼んでいる。五智とは五つの智恵を体得した仏身で、阿伽・宝生・弥陀・釈迦・大日の五如来をさすという。

 この五智如来像の蓮台に刻まれた施主名をみると、江戸安針町講中をはじめ武州草加町、同瀬崎村、その他大房・大林・大沢などの講中が名をつらね、その信仰範囲は当時きわめて広かったことを窺わせている。今でも四月八日(現在は月遅れの五月八日)の縁日には遠方からも信者が参集するといわれ、眼病や安産に霊験あらたかな仏と信じられている。

 この五智如来堂の右手の堂舎が薬師堂であるが、今は草葺の屋根はトタンで覆われ、堂の四面はめくら板で補強されて古い建造物には見えないが元禄十年(一六九七)の建造によるものである。この先薬師堂の堂舎は日光東照宮造営のため日光街道を通った飛騨の左甚五郎が、一夜でこれを建立し、さらに未完成の建築資材のうち〝うるし千貫 朱千貫〟を朝日夕日の照らす場所に埋めて去ったという伝説を残している。また堂内に納められている本尊は、直径二・五メートルの蓮華台に乗る高さ約三メートルに及ぶ薬師如来の巨大な坐像で、左右に十二将神像その他の木仏が多数納められている。

 この薬師堂の傍らは樹木の茂る小高い丘になっており、丘の裏は深い堀で堀の向かいは松林がつらなる埼玉鴨場である。丘の上には享保十六年(一七三一)造立の宝篋印塔や、丘のくずれ留めに用いられた石垣のように、半分土に埋もれた墓石がならべて立てられている。おそらく当所は墓地の一角であったろう。また五智如来堂から左方の広場に享保十年(一七二五)の地蔵像塔が一体取り残されたように立っているがその先は元荒川の堤である。

大房元荒川堤の道しるべ
大房薬師堂の五智如来堂
大房薬師堂