埼玉鴨場と大林寺

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 薬師堂を後にし街道に出るとその隣は宮内庁埼玉鴨場の正門前であり砂利を敷きしめた車寄せの突当りにいかめしい黒門が外部を遮断して建てられている。この鴨場は鴨の飛来が少なくなった東京浜離宮の代替として明治三十七年、大林の元荒川べりの田畑山林一〇町余歩が買収され、皇室用の遊猟場として建設されたものである。この工事は明治四十年十二月に完成し、翌四十一年皇太子の行啓を迎えて初猟が行われたが、以来国賓の接待に用いられて現在に至っている。一時は季節に入ると数万羽の鴨が鴨場に設けられた池に飛来したが、今はその数はきわめて少なくなったといわれる。

 なお越谷地域を中心とした広範な地域が明治十六年以来、江戸川筋御猟場と称され禁猟区に指定されていたが、野鳩など諸鳥による田畑の被害が甚しく、その補償問題で争論がたえなかった。しかし今は逆に鳥の姿もあまりみかけられなくなっている。

 この鴨場の前を過ぎて少し行き、住宅が建てこむ左手の露地を入って行くと、鴨場の松林を後ろにした砂丘の上の墓地に出る。墓地の入口に天保五年(一八三四)の笠付の六角地蔵塔と元禄六年(一六九三)の地蔵供養塔などがあるが墓石はおよそ寛文年間以降の新しい墓石で占められている。墓地の横は桃林を交えた梅林で、ぼけの垣で仕切られた小道を行くと大林寺という禅宗寺院の前に出る。現在境内地は石塀で囲われ本堂は建築工事中であるが、もとは埼玉鴨場を背にした山林中の庵りでことに淋しい一角であった。

 この庵りは享保五年(一七二〇)下総国五霞村の禅宗曹洞宗山王山東昌寺の住職大震和尚の懇望により、大林村弥惣右衛門がその敷地を寄進して建立された庵りで、大林庵と称し、大震和尚の師大安和尚をこの庵の開山僧としている。その後大震和尚は江戸と関宿往復の途次大林庵を中継の宿泊所にあてていたが、隠居後は当庵を隠居寺として当所に定住した。この間大震和尚は境内地に秋葉権現堂と稲荷社を勧請して万人講を取り立て、毎年七月には大施餓鬼供養を執行するなど衆人の教化につとめ信望を集めた。大震和尚の没後は、同和尚縁故の僧などが隠居寺にしていたが、寺院経営上の事情から文化二年(一八〇五)尼僧庵とされ、山王山東昌寺の門徒に組入れられて大林寺と称した。

 ちなみに大林寺の創立者大震和尚は俗姓大久保彦左衛門の末孫にあたる大久保権兵衛の子万之助で、一五歳のとき下谷龍谷寺で剃髪出家し、のち下谷龍谷寺・関宿東昌寺・広島国泰寺の住職を歴任、大林庵で八一歳の生涯をとじた。なお本家大久保彦左衛門家は高五〇〇〇石の旗本、実父は大久保権兵衛と称し芸州広島藩高一〇〇〇石の家臣、実母の実家は亀田大隅守と称し加賀藩高七〇〇〇石知行の家臣であったという。

 同寺境内の石塔類は、本堂工事のため境内の一隅に集められているが、このなかに文政二年(一八一九)の法華塔、文政十一年と天保四年(一八三三)の西国四国秩父坂東順拝供養塔、それに開山僧をはじめ歴代住職の卵塔墓石などが置かれている。また街道から大林寺に通じる小路の傍らに享保十一年(一七二六)造塔による一・五メートルほどの大乗妙典一千部供養塔が横倒しのまま置かれている。これは最近街道修理の際地中から掘り出されたものといわれるがなぜ当所に埋められたかは不明である。

埼玉鴨場の正門
大林大林寺の法華塔
野島浄山寺の道しるべ(今はない)