大林寺から五〇メートルほどで道は二筋に分かれる。右の直線道が日光街道で左が元荒川の堤防上に通じる道である。この岐れ道の角に嘉永年間の造立による「野島地蔵尊道三十丁余、のじま道」と刻まれた柱状型の大きな道しるべが立てられていたが、道路の拡幅工事の際取り除かれて今はない。この一帯はもと一面の桃林で、文化年間越谷を訪れた江戸小日向の一向宗僧侶津田敬順は、越ヶ谷宿の西方六町(約六五〇メートル)ほど行き、日光街道から左へ一町ほど入った所は、川筋に沿って南北一五町(約一・七キロメートル)、幅三、四町にわたって見渡す限りの桃林であると、その見事さを賞している(『十方庵遊歴雑記』)。また江戸の文人成島柳北も、「この駅(越ヶ谷宿)尽くる処桃林あり、幾万株あるを知らず、都人称するところ越谷桃源とはこれなり(『常総遊記』)と述べている。
しかし今はそのほとんどの桃林が伐りとられ新興の住宅地に転用されたが、それでも埼玉鴨場の傍らと大林の鎮守香取神社の周辺にその名残りを止めるような桃林がわずかに残されている。この大林の鎮守香取神社は、二俣の岐れ道のうち日光街道を五、六十メートルほど行った左手の露地を入ったところにある。左手はつげの木などの生垣で仕切られた桃園となっているが、やや広い境内地の入口に花崗岩の鳥居がぽつんと建っている感じである。その左片隅の垣根脇には享保五年(一七二〇)の青面金剛像塔と天明八年(一七八八)の文字庚申塔、それに上半分欠けた庚申塔がならべて立てられている。また神殿の右手銀杏の大木や杉の木が茂る下に文政十一年(一八二八)と天保六年(一八三五)の猿田彦大神塔、それに昭和三年建碑による大正四年からの農業協同組合育成経過の記念碑や木造の祠が建てられている。境内の裏手にもところどころ桃園がみられるが、およそは静かな住宅地に化している。