ここから住宅地のなかの左の道を大沢よりに戻るような状態で進むと、元荒川堤に通じるやや広い舗装道に出る。大野島越谷線と称される県道である。左手につらなる埼玉鴨場の松林やその下に広がる桃林をみながら進むと元荒川の堤防に出る。この堤防上の道と交差する交通量の多い二車線道路は、昭和四十二年開通になる草加バイパスであるが、現在このバイパスが国道四号線に変えられ、同時に日光街道通りの旧四号線は県道足立越谷線に改められた。
この新国道を横断し、元荒川ぞいの道を行くと、対岸に中央魚糧会社と称される肥料工場の建物が見える。臭気の発散と汚水の流出で大きな公害問題になった工場であったが、今は設備も改善され苦情も少なくなったようである。さてこの先の元荒川に鉄筋の橋が架せられているが、この橋を〆切橋という。古くは元荒川がこの少し上流にあたる大竹地先から恩間・間久里・大里・大林の境界を画し国道四号線(草加バイパス)にかかる元荒川橋の下まで大きく迂回して流れていた。この川に囲まれた袋状の中の地が荻島村の一部と袋山全域であり、古くは武蔵国崎西郡越谷郷に属していた。一方その対岸恩間・間久里・大里などは下総国下河辺庄新方郷に属したが、後この地も武蔵国に編入され新方領と呼ばれた。
その後寛文四年(一六六四)元荒川下流の瓦曾根溜井内に石堰が設けられ、溜井の水位上昇がはかられたが、このため上流地域は湛水の上昇で悩むようになった。とくに袋山を曲流する元荒川沿岸地域の耕地は大雨のつど水害を受けたので、沿岸諸村はしばしばその善処方を幕府に訴願していたが、宝永三年(一七〇六)ようやく元荒川の改修工事が施工された。このとき大竹地先から大林にかかる曲流部分が〆切られ、新たに荻島村の一部を分断した直道の新川が造成されたのである。このため元荒川の西岸であった荻島村の一部と袋山村は元荒川の東岸に位置するようになった。こうして改修新川によって本村から切離された荻島村の一部地域は〆切り部落と称されたが、同時に本村との連絡用に架せられた橋が〆切橋と称されるようになった。現在この地域は越谷のなかでも住宅団地の開発がはげしい一角で、田畑や山林も少なくなっている。