この〆切橋から少し行った右手の舗装された道は、袋山に通じる古道の一つであるが、現在八百屋・酒屋・魚屋など新興の商店がつらなっている。その途中明治期に県の中央浦和で活躍し衆議院議員に立候補してその名を高めた改進党の壮士川上参三郎の出た家などがある。また道は次第に商店も少なくなり邸宅のような構えをもったかつての農家が数軒石塀と屋敷林に囲まれて続く。そして道に沿って若干の畑地があったり、竹林があったり、竹林の中に小さな墓地があったりする。しかしその合間の露地を入ると、その先はすき間もないように建てられた新興の住宅団地になっている。
やがて畑地・空地・住宅の混在する道は左にカーブしまた右にカーブするが、右にカーブする地点は石塀で囲まれた屋敷地で、欝蒼たる樹木に覆われている。ここが袋山村の世襲名主細沼家の屋敷(現在その一部は他の人の屋敷地)である。この細沼家は近郷切っての有力な村役人層であったが、幕末期には所持高五〇〇石の大高持で、この周辺では松伏の石川民部家に次ぐ大地主であった。
この屋敷地の石塀に沿った道の左手は一叢の山林と空地で、空地の一角に古びた建物が建てられている。もとは釈迦堂と称された堂舎であったが、今はトタン葺の集会所になっている。この集会所の横は墓地であるが、墓地の入口に寛文八年(一六六八)の三猿を刻した庚申塔や、宝永五年(一七〇八)の笠付青面金剛庚申塔をはじめ、正徳三年(一七一三)、享保三年(一七一八)、同十九年、宝暦九年(一七五九)の青面金剛庚申塔が一列にならべられている。また墓地の小路をはさんで、安永四年(一七七五)、文化元年(一八〇四)、文政七年(一八二四)、嘉永七年(一八五四)の文字庚申塔、それに享保十一年の地蔵供養塔が同じく一列に置かれている。このほか明治四十二年の造塔による「無縁坊水死仏」と刻まれた石塔などもみられる。
墓地の中には、生垣で囲まれた細沼家の墓所があるが、その入口に元禄四年(一六九一)と同八年の造立になる六地蔵を陽刻した一対の石燈籠が立てられている。墓所の正面は明暦二年(一六五六)と享保七年(一七二二)に没した細沼氏先祖の大きな宝篋印塔墓石であり、往古における細沼家の繁栄を物語っているようである。なおこの釈迦堂には、文明十三年(一四八一)在銘の十三仏板碑が完形のまま保存されていたが、現在教育委員会で保管している。
釈迦堂を出て細沼家屋敷前を通り、十字路を右に曲がると大正十五年開設になる東武鉄道大袋駅に出る。道幅は狭いがその両側はもろもろの商店が立ちならび、大袋の中心的な繁華街になっている。また十字路の道を左に曲がり細沼家の屋敷林がつきた先は恩間の地になる。この辺りはもと元荒川の旧河道跡で最近までは水田地であったが、今はその一部を除き新興の住宅団地がつらなっている。このうち住宅と空地が混在する道を少し行くと、ブロック塀で囲まれた墓地がある。現在不動堂と称しているが、もとは延命院と称された真言宗寺院であったようである。
ここには恩間村の世襲名主渡辺家や、渡辺家から村田春海の養子となり、後恩間村に戻って別家を創出した村田家の墓所などがある。このうち渡辺家はその家譜によると、左大臣源融の後裔で、左介直光の代恩間の地に土着したと伝える中世来の土豪層である。天正十八年(一五九O)徳川氏関東入国により恩間村の名主に位置づけられた。慶安年間(一六四八~五二)恩間村の領主岩槻城主阿部正盛の命をうけ、恩間新田の開発にあたったが、その褒賞として一町歩の免田を与えられたという。この家からは国学者渡辺荒陽(宝暦二年~天保九年)や村田春海の養子となった歌人の村田多勢子などが出ている。渡辺家は現在大橋姓を称しているが、この屋敷内に文保元年(一三一七)在銘の板碑が完形のまま保存されている。
この家の先が昭和四十一年から同四十六年にかけて三階鉄筋建てに増改築された大袋小学校になるが、この辺りで大袋駅に戻ろう。北越谷駅からの行程およそ六キロメートル、住宅が立混んでいたり車の往来がはげしかったりしてちょっと疲れるコースであるかも知れないが、春や秋の季節には陽光を浴びながら歩いてみるのも悪くない。それなりに興味を覚えるコースでもある。