袋山久伊豆神社と持福院跡

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 かつて元荒川が曲流した流路の中に袋状に包みこまれた地が袋山で、その地名の通りここは砂丘状の微高地を含む自然堤防のきわめて発達した所である。もとはそのほとんどが畑地であり、野菜など商品作物の産地であったが、ことに幕末期から明治期にかけては桃や梅の産地としても著名であった。当地は前にもふれた通り、曲流した元荒川の西岸にあたり、古くは越ヶ谷郷に属したが、宝永三年(一七〇六)、流路の直道改修により元荒川から離れてその東岸に位置するようになった。それでも江戸時代を通じ越ヶ谷領に属したが、明治二十二年、恩間・大竹などすべてが新方領に属した周辺村々とともに大袋村を構成した。

 当コースは下車駅の都合などにより大袋駅を起点とし、元荒川の旧河道筋にあたる袋山・恩間の一部と、現元荒川の流域にあたる大竹・大道・三野宮の集落を中心にその散策を試みてみた。

 さて大正十五年開設になる東武鉄道大袋駅を下車、往来のはげしい右手の道を右に折れて線路を渡り、二俣に分かれる舗装道をまた右に折れて進むと道の片側は板石でふさがれた堀割である。これが末田須賀溜井(現岩槻市)から引水された須賀用水路であるが、少し上流からはまだふたがされてなく須賀用水の清流をみることができる。この用水路に沿った道は開発の進んでいる一角であるが、道幅の広いわりにはまだ静かな通りである。

 この通りを一〇〇メートルほど行き十字路を右に曲がって行くと突当りは袋山の鎮守久伊豆神社である。昭和四年造立の花崗岩の大鳥居を潜ると参道の両側に若干の杉の木があり、年号不明の御神燈と御手洗石が置かれており、正面は瓦葺の神殿である。境内の樹木はすべて伐払われて見事なまでに整地され一面砂地の広場になっている。神殿の右手には昭和三十一年建碑になる忠魂碑が建てられているが、これには昭和十八年から同二十年にかけての太平洋戦争戦没者十六名の氏名がその戦没地とともに刻まれている。

 また左手にはまだ神体が祀られてないとみられる木の香も新しい五社の木祠が建てられているが、その前に自然石による天保十一年(一八四〇)の句碑と明治十二年の雷電社遙拝碑が立てられている。このうち句碑には〝嶺いくつ 越てのほるや 富士の峯〟〝堤草の ゆるぎもやらす 雲の峯〟などの句が刻まれており、雷電社遙拝碑にも〝おもふほど 届くちかいや 稲の花〟などの句が刻まれている。俳諧の盛んであった地であることを偲ばせてくれる。その裏手に寛延二年(一七四九)の「山神宮」と刻まれた石祠が一つ、その裏は住宅地となっており、その住宅に開放されたとき伐り倒されたとみられる松の大木が小高い境内の砂地に朽ちたまま置かれている。

 この久伊豆神社境内から横に通じる小路があり、これを辿って行くと真言宗持福院の跡に出る。堂舎跡はトタン葺の集会所となっており、その横の墓地はブロック塀で囲われている。墓地に入ると塀際に寛政十二年(一八〇〇)の柱状型の庚申供養塔、元禄十三年(一七〇〇)、享保五年(一七二〇)、天明二年(一七八二)の青面金剛庚申塔、享保十八年、安永三年(一七七四)、文政四年(一八二一)それに年代不詳の二基の文字庚申塔、その他文化十五年(一八一八)の月山・湯殿山・羽黒山供養塔、それに整地されたときにあつめられたとみられる供養塔の台石などが一列にならべられている。これら多くの庚申塔造塔からみて、この地域の庚申信仰はとくに盛んであったとみられる。なおこの墓地の横手は整地され区画されて新しい霊園が造成されている。すべてが砂地だけに清潔な感じであるが、何となく落ちつきがないのは樹木が少ないせいであろう。

拡幅舗装前の袋山須賀用水通り
袋山久伊豆神社
袋山持福院跡の庚申塔群