恩間と大竹

144~146 / 174ページ

原本の該当ページを見る

 持福院跡を後にしてその前の舗装道を行くと、住宅や工場が混在するなかに薬師堂などもみられるが、そのまま行くと道は再び須賀用水路に沿った道に合わさる。これを右に折れて進むと間もなく恩間の地である。恩間は「忍間」とも「おま」とも記され、古くは金沢釈名寺文書嘉暦元年(一三二六)の「下総新方検見帳」に「おま」の名が見られる。

 このあたりからは住宅もまばらになり、道に沿って田畑が現われ、農家のこんもりとした屋敷林がつらなっていたりする。この昔の面影を残した屋敷林を目当てに右手の畔道を入って行くと、屋敷地の傍らに小さな墓地があり、ここにも享保十五年(一七三〇)、寛政十年(一七九八)、文化四年(一八〇七)、同十五年、文政四年(一八二一)の文字庚申塔、及び嘉永元年(一八四八)の青面金剛庚申塔が立てられている。墓地の裏は集落をつらぬく小路で、樹木の茂みが素朴な陰影をおとしている。

 道を戻ってさらに進むと、道は十字路となり須賀用水路に沿った直線道路は砂利道になって水田耕地の中に続く、また右の道は都市計画によって造成されたせんげん台住宅用地に続く新道であるが、この地はすでに区画整理が進み、将来大きな変貌をとげようとしている一角である。この十字路を左に折れて行くと、農家や工場、小住宅が混在する道となるが、その右手の建物のあい間から広々とした水田耕地が目に入る。やがて道は樹木は少ないものの、静かなたたずまいを感じさせる大竹の集落に入る。大竹の地名の由来はつまびらかでないが、もとは竹林の繁茂する地から名づけられた地名であったかもしれない。

 自動車の往来もまばらなこの道を進むと、右手にこんもりした樹木に覆われた小高い丘が見える。この丘を目当てに梅林に沿った露地を入って行くと、この丘には朱塗りの鳥居と瓦葺の社殿が建てられている。ここの集落の人びとによって勧請された浅間神社であるが石塔などはみあたらない。この丘の杉の木の間から大竹・大道などの水田耕地が一望に見下ろされるが、はるか北東せんげん台の住宅開発地からのびる住宅群はこの水田地まで迫っている。おそらくこの広大な水田地の長閑な眺めがみられなくなるのも、そう遠い将来ではなかろう。

恩間の水田地
大竹浅間社