古木に覆われた浅間神社の先は大竹の真言宗聖徳太子山龍蔵院東養寺跡である。現在東養寺跡の後ろに建てられている大袋小学校の前身である大竹学校が明治六年に東養寺で開校されたが、今はこの堂舎はなく、太子堂だけが残されている。なお東養寺の前は宝永三年の元荒川直道改修以前、その曲流地点の鼻先に位置していた。その後廃川となった古川は新田に開発されたが、いま東養寺跡の前に残る水田地がわずかに古川跡の面影を偲ばせてくれる。しかしこの元荒川故道にあたる水田地も今は次々と埋めたてられており、間もなくその河道跡はわからなくなるであろう。また東養寺の墓地は新道によって二分された形になっているが、もとの古道は元荒川旧河道に沿ってつけられていたに違いない。
その古道の一部とみられる東養寺跡前の小道から墓地に入ると、入口に六地蔵を陽刻した寛文元年(一六六一)の舟型の地蔵供養塔と、安政三年(一八五六)の柱状型の文字庚申塔が建っている。これには「南こしがや一里、東まくり半り、かすかべ二り、西のじまじぞう半り、いわつき二里、のみち」と刻まれており道しるべを兼ねた庚申塔になっている。またその横の生垣づたいに、享保十八年(一七三三)の「大青面金剛」と刻まれた文字庚申塔、正徳元年(一七一一)、延享三年(一七四六)、安永六年(一七七七)、文化元年(一八〇四)の青面金剛庚申塔、それに享保十□年の十三仏の種子を陰刻した十三仏供養塔などが一列にならべられている。墓地のなかの墓石数は多いとはいえないが、なかには寛永五年(一六二八)在銘の宝篋印塔墓石や、台石や相輪・蓋・塔身などが離れ離れになっているいかにも古そうな宝篋印塔墓石や五輪塔墓石が何基かみられる。ことにこの墓地には、正和元年(一三一二)と嘉暦三年(一三二八)在銘の青石塔婆が墓石とともに立てられており、この地域の開発年代の古さを窺わせている。
この墓地の横から畑の中を通る砂利道を行くと間もなく舗装された道と合わさり、大袋浄水場の前に出る。この隣りが大竹の鎮守香取神社で、現在大竹神社と称されている。道に面した木の鳥居の傍らに、天保二年(一八三一)の猿田彦大神塔が建てられているが、これには武州岩槻領大竹村とある。大竹村は寛永年代から江戸時代を通じ、その隣地恩間・大道・三野宮各村とともに岩槻藩領の中に含まれ岩槻領と称されていたのである。また境内のなかには神殿修復等の竣功記念碑、出雲大神や伊勢皇大神宮参拝記念碑、安永四年の「奉階建立供養」と刻まれた石塔が建てられており、右方には屋根囲いの木小屋のなかに、延享元年(一七四四)在銘の牛頭天王宮・山王宮・神明宮・天満宮・大六天宮の石祠が収められている。また神殿の前には明治七年奉納の御神燈が一対、右方には大きな神楽殿が建てられているが荒れたままになっており今は使われてはいないようである。