ここから少し行くと三野宮の地となるが、数本の松の古木が茂る先に銅葺屋根の寺院が見える。これは真言宗稲荷山一乗院である。当院の堂舎は幕末期に火災で焼失したが、その本堂の再建にあたり末田村(現岩槻市)金剛院から建築資材の贈与をうけたといわれる。このなかに慶長年間の建造になる神奈川御殿の解体資材が含まれていたが、これが現在でも使用されている本堂の一枚板戸や欄間などの建具であるという。そうであるとすると、この建築資材はおそらく全国でも数少ない古いものといえる。なお神奈川御殿は早い年代に廃止されたが、この御殿の解体資材は元禄年間徳川綱吉の母桂昌院が、山門の仁王像とともに末田の金剛院に賜わったものと伝える。また一乗院には永和四年(一三七八)在銘の板碑が保管されているが、これは当院の境内地に古くからあったものという。
さて一乗院には山門がなくその入口は広場のまま境内地に続いているが、その右手には不動堂がありそれに続いて大正十一年の建碑による山口半兵衛の碑がある。その碑銘には半兵衛は三野宮の人で剣道五段、越ヶ谷警察分署の剣道師範を勤め、明治四十年大日本武徳会埼玉支部長を拝命した旨が記されている。また左方林の茂みの奥に神社の祠があり、ここに嘉永三年(一八五〇)の「白山大権現」と「子痘大権現社」と刻まれた石祠が置かれている。
この祠に続き樹木を背にして明治二十四年建碑の田口久五郎の墓碑がある。この裏面に刻まれた碑銘によると、明治二十三年の関東洪水の際、元荒川の堤防が決潰し、大道・三野宮の地は洪水に襲われたが、この水を隣村恩間の古堰を切って落そうとしたため、恩間の人びとと対立した。このとき埼玉県巡査田口久五郎が中に立って説得にあたったが、激昂した衆人に打たれ殉職した旨が記されている。今にしてみればこれも上流・下流の利害の対立で、しばしば騒動をおこしていた往古の水争いのすさまじさを偲ばせる歴史の一こまといえよう。
この田口久五郎の墓碑に続き、この後ろにあたる墓地を画してならべられた石垣のように石塔がつらなっている。なかには台石からくずれて倒れたままになっているものもある。これら石塔の種類をみると、享保十六年(一七三一)と年代不詳の青面金剛庚申塔、天保四年(一八三三)と安政二年(一八五五)の文字庚申塔、元文二年(一七三七)の大乗妙典日本廻国供養塔、嘉永四年(一八五一)の月山湯殿山羽黒山供養塔、文政八年(一八二五)の「ぶつえんをむすべどさくか、いとざくら」の歌が刻まれた普門品十万巻供養塔などがある。
また墓地の入口にも年代不詳の宝篋印塔をはじめ、享保十五年(一七三〇)の馬頭観世音供養塔、天保十五年(一八四四)の六角石塔による六地蔵、天保十年の光明真言百万遍供養塔、天保五年の弘法大師一千年御忌供養塔、明治二十七年の普門品十万巻供養塔などがならべられており、比較的供養塔が多く建てられている寺院の一つである。墓地はやや広く墓石も少なくないが、あまり古い墓石はみあたらない。