三野宮香取神社とその集落

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 一乗院を後にして堤防上の県道を進むと道は二筋に分かれる。このうち堤防上の左手にあたる曲折した県道を離れ、堤防下の直道を行くと右手が三野宮の鎮守香取神社である。境内は平坦で広場のような感じである。朱塗りの木の鳥居をくぐると、神殿の前には昭和八年奉納の御神燈があるだけだが、左手の笹竹の茂みの下には幾つかの石塔がある。元文五年(一七四〇)の「稲荷明神石燈籠寄進」と刻まれた寄進供養塔、天保九年(一八三八)の稲荷大明神塔とある石祠、嘉永三年(一八五〇)の「妙見星神筑波山両大権現」と刻まれた笠付の石塔、嘉永元年の大形石と刻まれた卵形の大石、それに「大盤石三之宮卯之助持之 嘉永元年」と刻まれたものと、「白龍石 三之宮卯之助持之 嘉永二年」と刻まれた力石などである。

 このうち力石に刻まれている三之宮卯之助とは三野宮村出身の力持ちで姓は向佐氏、力持ちを見世物として一座を結成し、諸国を興行して歩いた。このときの奉納石とみられる卯之助の名が刻まれている力石は、越ヶ谷久伊豆神社をはじめ深川八幡神社、鎌倉鶴岡八幡神社、はては信州の諏訪神社など各地に数多く残されている。卯之助は江戸一番の力持ちと自称していたが、嘉永七年(一八五四)七月四十八歳で没した。一説には力持ちを競って負かした相手の遺恨を買い毒殺されたとも伝えるが、卯之助に関する残された資料は力石のほか、日本一力持と記された位牌と一座を結成し諸国を巡業したときの興行広告に用いられたとみられる版木だけであり、くわしいことは不明である。しかも卯之助の墓は越谷市内にはみあたらないという。それはさておきこの卯之助の持ち上げたという力石の先には、安政五年(一八五八)筆子中によって造塔された天神の石祠がある。これには筆子の師匠とみられる一学の名で「神垣に 春をとなえや 梅の華」の句が刻まれている。その奥も笹竹の茂みであるが、このなかの小路を入っていくと屋敷神とみられる稲荷の祠がある。その前はかなりの規模の梅林で、花の季節には見事な眺めと思われる静かな一角である。

 香取神社を後にして再び舗装道に出るとその先は間もなく岩槻市大森の境になる。その前の右手の曲折した砂利道の古道を入っていくと三野宮の一集落であるが、この辺りはまだ昔のままのたたづまいで新しい住宅もみあたらない。古道の両側は家の境もわからないような屋敷林に固まれた農家で、ときにはその庭先から桃園や梅園が続き、草葺の屋根が見えたりする。人の往来もなく樹木をそよがす風にのって小鳥の囀りが長閑さを添える。また梅林の片隅に明和七年(一七七〇)造塔の宝篋印塔や数基の墓石、それに木仏を安置したいわくありげな堂などもみられるが、それぞれに伝説を残しているようである。

 この集落のはずれは末田須賀溜井(現岩槻市)から引水された須賀用水で、その先は三野宮から岩槻の川通りの村々にわたって一望に広がる水田耕地である。なおこの用水路に架せられた小橋の袂には、天保十年(一八三九)の「庚申待十八度供養塔」とある石塔や同年の猿田彦大神塔、それに延享元年(一七四四)の念仏供養塔が立てられており花などが供えられている。この昔ながらの須賀用水路に沿って少し戻ると、その一部はすでにコンクリートの近代的な用水路に改められており、用水路わきの道も拡幅されて舗装道路の工事が進められようとしている。しかも水田耕地のはるか東南方は昭和四十五年から工事が進められている千間台区画整理事業地の続きで、新興住宅の建物が怒濤のように目の前まで迫ってくる感じである。しかし大道・三野宮の集落内は樹木に覆われまだ昔ながらの静かさと素朴さを保っている。

 ここから道を再び堤防上の県道にもどり、三野宮橋を渡って野道を進むと、県道岩槻越谷線に出る。ここからバスに乗ると越谷駅へも岩槻駅へも出られる。大袋駅からの行程およそ七キロメートル、越谷に今でも残っている田園集落の情緒を心ゆくばかり味わうには恰好のコースである。

三野宮香取神社
三野宮神取神社の天神の石祠
三野宮須賀用水路脇の石塔
三野宮耕地