野島地蔵尊

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 荻島村は明治二十二年四月、野島・小曾川・砂原・南荻島・後谷・西新井・長島の七村によって構成された旧村で現在荻島地区と称されている。このコースは野島・小曾川・砂原・南荻島のうち元荒川流域の集落を中心として野島から逆に越ヶ谷に向かう散策コースをとった。

 さて越谷駅から県道岩槻越谷線を走る岩槻行のバスに乗り、野島地蔵尊前で下車すると左手は荻島地区から岩槻市新和地区にかけて広がる一面の水田地域である。県道に沿って流れる小川は慶長年間の造成を伝える末田須賀溜井(現岩槻市)から引水された末田大用水路で、新和・荻島・出羽地区の灌概用水として重要な機能を果してきた。この用水路に架せられた石橋の傍らに石碑が建てられている。昭和十八年建碑による耕地整理竣功記念碑である。その碑銘によると、昭和七年新和村と荻島村は末田用水耕地整理組合を組織して耕地の整理事業を推進させ同十年に竣功をみた。その整理耕地は一二〇〇町歩、総工費一九万七、一〇〇円、この結果耕地反当りの収穫は増大しその恩恵は大きなものがあったとある。

 この石碑の前にあたる野島の停留所から右手に通じる道のうち砂利の小道を行くと野島の鎮守久伊豆神社の前に出る。花崗岩の鳥居をくぐると左手は杉木立で、参道の両側には大正六年の修繕とある幟柵、その先に大正六年と昭和三年建碑の大典記念碑、神殿の傍らに正徳三年(一七一三)の青面金剛庚申塔と天保九年(一八三八)の「榛名山大権現 雷電社」と刻まれた石祠が置かれている。境内はさほど広くないが辺りには人影もなくひっそりした感じの神域である。この神社脇の小道をさらに行くと突当りは曹洞宗野島の地蔵尊である。寺号は野島山浄山寺と称しているが、もとは天台宗で慈福寺と称し貞観二年(八六〇)の創建を伝える。本尊の地蔵菩薩像は、岩槻慈恩寺の観世音菩薩像、足立郡里村(現鳩ヶ谷市)慈林寺の薬師如来像とともに、慈覚大師一木三躰の作といわれ、これを本尊とした寺はいづれも慈覚大師の慈をとって寺号に付したと伝える。

 その後慈福寺は天文八年(一五三九)の没年を伝える震龍景春和尚の代に天台宗から曹洞宗に改められ、天正十九年(一五九一)寺領高三石の朱印地を与えられた。寺伝によるとこのとき徳川家康から高三〇〇石の寺領をおくられたが、慈福寺では過分であるとこれを辞退した。そこで家康は高三石の寺領朱印状を鼻紙に認ためて与えたといわれ、これを鼻紙朱印状と呼んでいる。また家康はこの地山林欝蒼として清浄なりと感じ入り、寺号を浄山寺と改めるよう達したという。

 こうして慈福寺の寺号は浄山寺と改められたが、江戸時代を通じ当寺は霊験あらたかな子育地蔵尊として広く人びとの信仰を集めた。ことに安永七年(一七七八)には江戸の湯島天神で出開帳が行われ、湯島の講中をはじめ江戸の信者による参詣者が群集した。その後天明四年(一七八四)には千住の慈眼寺で、同五年、寛政六年(一七九四)、文化十三年(一八一六)、弘化三年(一八四六)、同四年には湯島天神でそれぞれ出張開帳が行われていたが、いずれも盛況であったという。このほか関東各地の要請にもとづき、たとえば熊谷・深谷・妻沼・桐生・足利・藤岡・不動岡(文化十三年)、あるいは比企郡松山・入間郡小久保村・筑波郡上郷村・葛飾郡堤根村(文政二年)など各地を巡回しながら出開帳を行ったが、地蔵信仰の中心として、各地からの参詣人が絶えなかったという。

 ちなみに文化十年(一八一三)と同十四年に野島地蔵尊を訪れた江戸小日向の僧侶釈大浄は、野島地蔵尊縁日の有様と片目地蔵の伝説をおよそ次のように述べている(『十方庵遊歴雑記』)。境内は決して狭くはないが、境内には飴屋・菓子屋・蕎麦屋・団子屋・燗酒屋・人形見世屋・独楽まわし・居合抜の歯みがき売・覗からくり・書画の早書・奉納の義太夫語り、粟もちの曲搗などが所せましと立ならび、境内は足の踏み場もないほどの参詣人でうずまっている、とその賑わいぶりに驚いている。

 また野島山延命地蔵尊は慈覚大師一刀三礼の作で、霊験ことにあらたかな地蔵であるが、あるとき堂舎を出て村を出歩いていたとき茶の木で片眼をつき刺し血が涙とともに流れでた。そこで地蔵は山門前の池で眼の血を洗い流したところ、池の魚はすべて片目になった。このため人びとはいつかこの地蔵を片目地蔵と呼んだという。これは衆生の眼病を癒やすための願いであるが、ことに産婦が地蔵の御札を握っていると立ちどころに安産がかなえられるといわれ、この御札とともに眼病などの療治に門前の池の水を竹筒に入れて信者に頒けている、というようなことをいっている。

 なおこの片目地蔵の伝説に関しては、寺伝によると承応二年(一六五三)僧侶の姿に身をかえた地蔵が錫杖を振りながら民衆の教化に務めていたが、あるとき茶園で眼を傷つけた。そこで当時の住職が出歩かないようにと地蔵の背に釘を打ち鉄の鎖で地蔵をつないだが、享保十一年(一七二六)ときの住職がこれをみるに偲びず、地蔵の背から釘を抜き鎖を解いたと伝える。こうした故事から野島の農家では古くから茶の栽培は行わなかったという。

荻島耕地整理の碑
徳川家康寺領朱印状
明冶期の浄山境内