さて浄山寺の境内は一段高い地で、石段を昇った所に朱塗りの山門がありその両脇に、享保十八年(一七三三)と天保十四年(一八四三)造塔になる地蔵像が立てられている。この山門前の窪地がかつて人びとの教化に歩いた地蔵が茶の木で痛めた眼を洗った池といわれるが、今は水田になっている。境内地は広く数本の銀杏の大木と鐘撞堂が風趣を添えている。この鐘楼にかけられた梵鐘は昭和三十三年鋳造の鐘である。この鐘の銘によると延享三年(一七四六)に鋳造された鐘は、昭和十八年の一月、軍需用物資として徴発された旨が刻まれている。また文化年間野島地蔵尊を訪れた釈大浄は、浄山寺の表門は南にあり裏門は東にある。本堂は南向きで十一間(約二〇メートル弱)の藁葺である、と述べているが、今は裏門はなく本堂も文久三年(一八六三)の改築になるものであるという。
山門をくぐると石畳の参道が本堂に続く。その両側に嘉永五年(一八五二)奉納による石垣で築かれた大きな灯籠台がある。現在は台石だけ残っているが、浄山寺所蔵による明治期の写真には、銅製とみられる大きな灯籠がみられるので、おそらくこの灯籠も軍需物資として徴発されたものであろう。また参道を中にして享保七年(一七二二)の水盤をはじめ、その台石に上総・下総・布川・宇都宮・松戸・千住・幸手・粕壁など奉納者の名を刻んだ寛政四年(一七九二)の永代油資寄附碑、寛政十二年の観音供養塔、昭和四十八年奉納の石灯籠、明治三十二年造塔の地蔵供養塔、江戸湯島天神講中奉納による寛政元年(一七八九)の錫杖塔、ただしこれは台石だけが残っており、その上に文化十五年(一八一八)同じく湯島天神講中によって、再建された柱が立っているが、錫杖は戦時中徴発されて今はない。
このほか文化十年(一八一三)の普門品二万巻供養塔、明治三十九年の山林一五反、立木五〇〇本寄進とある永代施餓鬼料奉納碑、昭和四十八年の鋳鉄製天水桶、延宝四年(一六七六)の石仏を納めた石祠などが置かれており、信仰範囲の広さを窺わせている。ことに本堂内の庇にかけられた天保十二年(一八四一)の銅製の大鰐口には、神田紺屋町・本小田原町・日本橋青物町・神田豊島町・馬喰町二丁目・江戸橋四日市・芝金杉浜町・大伝馬町・深川冬木町・千住河原町・二郷半領花和田村・竹塚栗原村・粕壁・高野・大門・菖蒲など広範な地域にわたる鰐口奉納者の名が八〇名ほど刻まれている。この鰐口も戦時中徴発されることになっていたが、天井と釣環の間隔が狭かったため取外すことができずに助かったもので、全国でも稀にみる大鰐口であり市の文化財に指定されている。
こうして江戸時代から地蔵信仰の中心であった野島地蔵尊は、現在二月二十四日と八月二十四日の縁日には出店が境内にたちならび、参詣人で賑わうが、平常はひっそりした静寂の中に永い歴史を秘めたままその幽雅なたたづまいをみせている。また本堂の左手は竹林を背にした墓地であるが、あまり古い墓石はみあたらない。なお当寺には歴代将軍の寺領寄進状をはじめ浄山寺由緒書、出開帳の人馬寄進帳、その他数々の古文書が保存されている。