浄山寺山門前の左の小道は、元荒川堤防に沿ったかつての岩槻道で、途中関東十八檀林の一つ真言宗金龍山金剛院前に通じる古道である。その沿道の一部は新興の住宅地や工場になっているが、脇道に入ると畑地や水田のなかに昔ながらの農家が散在する。なお野島から末田(現岩槻市)の溜井に通じる間の県道は、昭和初年に造成された新道で、今は自動車の往来もはげしい。
さて浄山寺の周辺は、文政年間家数十九戸(新編武蔵)の小さな集落であったが現在七九戸、それでも畑地が広がる長閑な田園地域で、道端に馬頭観音の供養塔なども立っている。ここで一たん野島の集落を抜けて県道に出る。それより越ヶ谷方面に向かって進むと、間もなく左手は小曾川の集落となり、杉木立のなかの小曾川の鎮守久伊豆神社の前に出る。境内の規模はさほど広くはない。寛保二年(一七四二)建立の花崗岩の鳥居をくぐると、天保二年(一八三一)の御神燈、年代の読みとれない御手洗石、昭和三十七年の神殿改築記念碑、明治二十九年の日清戦役勲功碑、同三十九年の日露戦役凱旋記念碑、明治二十一年の大杉神社と刻まれた石祠、年代不詳の疱神や御嶽神社と刻まれた石祠、それに金昆羅の石塔などがならべられている。また神殿の傍らには草葺の大きな神楽殿が建っているが、今は使われていないとみえ荒れたままになっている。
この神社の傍らは露地のような野道で、そこをへだてた一角は墓地である。墓地の入口には享保十八年(一七三三)の念仏講中による観音供養塔、文政二年(一八一九)の有縁無縁供養塔、文化七年(一八一〇)の念仏七億万遍供養塔、寛文二年(一六六二)の地蔵供養塔などがあり、また観喜殿と刻まれた珍しい柱状型の石塔が二つに割れたまま置かれている。墓地の規模は小さく古い墓石もみあたらないが、当所はもと西福院と称された真言宗寺院の一つであったようである。また墓地の傍らの野道の端に、正徳四年(一七一四〉、天保二年(一八三一)それに珍しく年号のない二基を含め計四基の青面金剛庚申塔が一列にならべられており、なかに文政九年(一八二六)の観音供養塔がまじっている。
この野道を県道側から逆に東方へ向かうと古い集落を中心とした小曾川の集落で、畑地が広がる間に農家が散在する。おおかたの農家は近代的な建築に改造され屋敷林もまばらであるが.なかには草葺屋根の家もみられる。なお永禄六年(一五六三)小田原北条氏よりその戦功を賞され、亀戸内の地を与えられた小曾川小五郎は、当地の住人といわれる(『新編武蔵』)。その他小曾川氏に関する記録や伝承がないのでくわしいことは不明ながら、当地には中世の板石塔婆を所蔵している農家もあり、古い集落であることは確かである。
さて野道の突当りは小曾川の集落を南北につらぬく古道で現在やや広い舗装道になっているが、この道に出た角に生垣で囲まれた共同墓地がある。ここにも宝暦四年(一七五四)の青面金剛庚申塔や秩父講中造塔の観音供養塔などが墓石とともに立てられており、先祖の眠る墓地を身近かにして生きてきた村民の敬虔な心情が偲ばれるようである。この舗装道を進んで行くと道は丅字路となり突当りは農家の屋敷林となる。この丅字路を左に向かっていくと元荒川堤防下に広がる畑地に出るが、今はビニールハウス栽培の盛んな耕地になっている。またこの道を右に行くと県道に出るが、その途中から脇道に入ると、その道の端に屋根構いの祠があり、中に元禄五年(一六九二)の青面金剛庚申塔が納められていたりする。
こうして静かな小曾川の集落を後にして県道に出る。かつてはこの県道を画してその西方は一望見渡す限りの水田耕地であったが、現在その水田耕地の中央をたち切ったように規模の大きい近代的な舗装道が貫通している。昭和五十四年六月三十日にオープンした県立しらこばと水上公園に通じる新道である。この水上公園の敷地は越谷と岩槻にまたがる水田地で、戦時中陸軍飛行場が建設されたが、戦後は食糧増産の国策にもとづき、開拓地に開放された土地である。水上公園のオープンにより、この周辺は将来大きく変るであろう。