車の往来のはげしい県道を少し進むと、小曾川の集落に遮ぎられて見えなかった元荒川の堤防が左手の頭上俄かに迫ってくる感じで目の前に現われる。ここから先は県道を画して二つの集落に分かれる砂原の地である。先ずバス停前から元荒川の堤防に昇ってみると、元荒川の曲流を中心にして堤防沿いの砂原側の樹木の茂みと、元荒川対岸に広がる耕地がマッチし自然に豊んだ景観をみせる。しかもこの堤上には宝暦三年(一七五三)の青面金剛庚申塔と数基の墓石が立てられており、現代離れした素朴な雅趣を添えている。ここで堤を下り県道の西方にあたるもと東組と称された砂原の集落に入る。現在主要な道路は舗装されているが、新興の住宅は少なく古くからの農家を中心とした畑地の広がる地域で、集落のはずれは広々とした水田地域である。
もとは農道であったとみられる舗装道を行くと道の端に小さな墓地があり、その傍らに寛文二年(一六六二)の観音供養塔や道しるべが刻まれた宝永三年(一七〇六)の青面金剛庚申塔などが立てられている。集落の樹の茂みの中を流れ、やがて集落を離れて水田耕地のなかを流れる人影もない末田大用水路に沿って行くと、畑地のなかや水田地のなかに個人持ちの墓地が数多くみられ、なかには康暦二年(一三八〇)在銘の板碑が墓石とともに置かれている墓所もある。末田用水路沿いの散策を後に再び県道に出る。この県道をはさんだ東方はもと前原組と称された砂原の一集落である。県道から左に分かれた道がある。これは元荒川の〆切橋に通じる道であるがこの道を入った所に砂原の鎮守久伊豆神社がある。
境内は道に沿って柵はなく解放的な広場のような感じである。参道の入口とみられる道角に猿田彦太神塔が立てられている。この左面には「此方まくりへ一り、かすかべへ三り」、右面には「こしがやへ一り」と道しるべを兼ねたものであり、その他歌が刻まれているようであるが、年号銘とともに文字は薄れて読みとれない。この先に花崗岩の鳥居と朱塗りの木の鳥居がある。また神殿前の参道左右には、明治二十一年の御手洗石、天保十三年(一八四二)の御神燈、天明八年(一七八八)の天神講中による天神の石祠、明治三十年の榛名神社と刻まれた碑などがある。この榛名神社碑の裏面には「埴山の神の功あるゆへに五穀豊熟祈るひと〳〵」との歌が刻まれている。このほか昭和十八年建碑による「本殿幣殿新築」ならびに「拝殿改築」と刻まれた記念碑が建てられているので現在の神殿は、昭和十八年の改築であることが知れる。神殿前の境内には槇や銀杏の大木、それに赤松などが植えられ神域の趣きを保たせている。さらに神殿の裏はこんもりした杉林で、杉林の中につけられた小路は元荒川の堤防に通じているが、堤防上は広い平坦な草原で、疲れた体を休ませるに恰好の場所になっている。
また神社境内の傍らは垣などの境もなくどこまでが神社の境内かはっきりしないがそのまま墓地に続いている。ここはもと聖動院と称された真言宗寺院で、今はその名残りのようにて不動堂だけが残っている。この墓地脇の露地には、嘉永元年(一八四八)の青面金剛庚申塔と、文化二年(一八〇五)の右面に「是よりこしがや」左面に「是よりしめきり」正面に「いわつき」と道しるべが付されている青面金剛庚申塔が置かれている。おそらくこれらの庚申塔はもと岐れ道の角に置かれていたものだが、道路の拡幅工事などの際当所に移されたものであろう。このほか墓地の奥に祠堂の中に納められた成田不動尊の大きな石塔などがある。墓所の規模はさほど小さくはないが古い墓石はみあたらない。なお墓地に隣接して樹木の茂みに覆われた屋敷地はもと砂原村前原組の世襲名主松沢家である。当家からは江戸時代の村方文書が多数発見されたが、現在市史編さん室に保管されている。