砂原の久伊豆神社を後にし、道幅の広いわりには車や人の往来も少ない元荒川の〆切橋に通じる道を進むと、その右手は荻島の地で水田地が広がる。やがて鉄線工場などの建物が幾棟か続き元荒川の堤防上に出る。橋を渡らずに堤防上の道を右に進むと、かつて臭気公害で騒がれた肥料工場の前に出る。さらに進むと国道四号線(旧草加バイバス)、これを横断して行くと元荒川の中土手沿いにつらなる荻島堤根の古い集落に入る。左手は出洲と称されもとは河川敷の遊水池であったが、急速に住宅地化した地域の一つであり、そのはずれは文教大学の校舎である。この文教大学の校舎がみえだすやや手前から道を右に折れると真言宗稲荷山玉泉院の前に出る。山門はないがその入口に明治二十一年建立になる「新四国八十八ケ所三十二番」の観音霊場めぐりの柱状型標識塔が建てられている。本堂は昭和四十九年の新築になるもので、本堂の傍らに建てられてある落成記念碑の銘によると、玉泉院は寛永十四年(一六三七)の創立とある。本堂わきの墓地の一角には元禄五年(一六九二)の六地蔵供養塔をはじめ、明和七年(一七七〇)の大乗妙典六十六部日本回国供養塔、宝永三年(一七〇六)の光明真言十万遍供養塔、延享五年(一七四八)の青面金剛庚申塔、安永二年(一七七三)の六地蔵などがあり、墓石のなかには寛永十年(一六三三)在銘の宝篋印塔墓石などもみられる。今は国道四号線に隣り合わせ、自動車の騒音が気になることもあるが、かつては山林と畑地に囲まれた静かな墓地であった。
玉泉院を出てその前の小路を戻り、中土手の往還道を横断し、畑地と住宅が混在する出津の河川敷に下りると、左手の畑地の中に松の木があり、松の木の下に数基の石塔が建っている。一つは寛文九年(一六六九)の三猿像が刻まれた笠付の文字庚申塔、一つは天明五年(一七八五)の青面金剛庚申塔、それに寛政十年(一七九八)の「弁財天・大黒天・昆沙門天」と刻まれた石祠、明治十五年の弁財天と刻まれた石塔である。
この小道をさらに進むと突当りは松の並木が所どころに残る荻島の鎮守五社合祀による稲荷神社の参道になる。境内は盛土の丘になっているが、その前に朱に塗られた木の鳥居、天明四年(一七八四)の御手洗石、年代不詳の一対の御神燈、安政六年(一八五九)の柱状型の猿田彦大神塔などが建てられている。石段を昇った境内地には、自然石による富士登山記念碑や浅間大神の碑、「一万度中臣大祓」の碑、それに昭和三十一年建碑の「国有境内地譲与録」と刻まれた碑などがある。このうち譲与録の碑には、当社は享保九年(一七二四)正一位の幣帛を賜わった古社である。社殿は天保二年(一八三一)の再建による建築物、古くは出津稲荷山社と称したが、明治四十二年愛宕社・熊野社・諏訪社外一社を合祀し、引き続き村の鎮守として崇敬をあつめてきた。明治二十三年新憲法の施行にもとづき、国有境内地の無賞譲与を大蔵大臣に申請、境内地一一五九坪余、立木七三石余が改めて当社の所有になった旨が刻まれている。このほか神殿の裏の木立のなかには、天保九年(一八三八)の天満宮と寛保二年(一七四二)の石祠、それに大正十年の杉苗五百本奉納の記念碑などが建てられているが、現在杉の木はみあたらない。