出津の板碑と神明下最勝院跡

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 稲荷神社を後にして、直線状の参道を行くと、途中文教大学の運動場や同大学の寄宿舎、同じく付属幼稚園などの建物の間を通るが、突当りは元荒川の堤防でその堤防道の片隅に天保三年(一八三二)の「川水神」と刻まれた石塔が取残されたように立てられている。川の向かいは北越谷(旧大房村)の地で、昭和四十八年に開校した北越谷小学校の白い校舎が目の前に見える。

 この堤防上の道を左に行くと文教大学の正門前に出るが、これを右に折れて進むと県道岩槻・越谷線に出る。元荒川はここから左方へ大きく迂回するが、数年前この曲流地点の川の中から康正三年(一四五七)、寛正二年(一四六一)、応仁三年(一四六九)、文明二年(一四七〇)在銘のものなど、破片を含めると三十数基の板碑が出土した。現在この板碑は市史編さん室に保管されている。

 さて元荒川に沿った県道を少し行くと、旧神明下村(現神明町)の地に入るが、右手の道下に墓地がみえる。坂を下りて墓地に向かうと、その入口に年代不詳の普門品五万巻供養塔、文政十三年(一八三〇)の「三界万霊一切生霊」と刻まれた供養塔、享保十一年(一七二六)の地蔵供養塔、寛文三年(一六六三)の観音供養塔、正徳四年(一七一四)の大乗妙典六十六部供養塔、元禄十三年(一七〇〇)の六地蔵供養塔、寛保二年(一七四二)の宝篋印塔、寛政十年(一七九八)の水盤などが一列にならべられている。このほか大正七年建碑の「西国秩父坂東八十八ヶ所、湯殿山月山羽黒山千社順拝」などとある大きな自然石の記念碑が建てられている。これには「宇田川の心のうちのむねれんげ、いずこの星にわれはなるらん」との辞世と思われる歌が刻まれている。

 ここはもと最勝院と称する真言宗寺院であったが、今は集会所となっており堂舎はない。墓所もかつては広い敷地で墓石が広い範囲で散在していたが、現今その周囲は宅地に開発されたため、散在していた墓石は一か所に集められた。このためか宅地造成にともなう下水溝などの造成工事には、地中から墓石が出土することもあるという。ここからバスに乗って越谷駅に出るのもよく、また神明橋を渡って北越谷駅に出てもその距離はさほど遠くない。野島から神明橋までの行程およそ六キロメートル、健脚向きのコースであるが、県立しらこばと水上公園への帰路にでも少し足をのばして野島地蔵尊に参詣するのも一興であろう。

荻島出津の元荒川曲流地点