大吉香取神社と松伏溜井

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 北越谷発野田行バスに乗車し、国道旧一六号線沿いの新方橋で下車すると、その前は鷺後(さぎしろ)用水路と称される葛西用水路である。この用水路は通称逆(さかさ)川ともいわれ、寛永六年(一六二九)頃の中島用水(後の葛西用水)開発にともなう人工流路の一つであるが、古い頃の荒川(現元荒川)曲流河道跡を利用した水路ともみられる。なお逆川とは古利根川を流れる葛西用水の水が引いた秋から春にかけて、鷺後用水路の下流にあたる元荒川の水が、逆にこの水路をつたって古利根川に流れたことから名付けられたものである。

 もっとも現在は用排水の分離工事によって葛西用水は元荒川と切り離されたため元荒川からの逆流はなくなったので、逆川の名称は不適当な名になったといえよう。またこの鷺後用水路に沿って走る旧一六号線は、江戸時代野田街道とも猿島街道とも称された古道であるが、この道はかつては越ヶ谷天嶽寺わきから花田を迂廻した荒川(元荒川)の曲流路に沿った堤防上の道でもあった。

 さてバスの停留所から少し行くと鉄筋の橋がある。最近木橋から鉄筋コンクリートに改められた新方橋である。この橋の袂、樹木に覆れた一角が大吉の鎮守香取社の境内地である。道路に沿って三抱えほどもある大欅(けやき)が二本、その幹から幹に〆縄が張られており境内への入口になっている。〆縄をくぐったところに花崗岩の鳥居が建てられている。また参道の両側に氏子中による嘉永四年(一八五一)の御神燈、その先に安政二年(一八五五)の年号銘と佐七・庄蔵・武助など大吉村有志による奉納者名が刻まれた屋根囲いの御手洗石、それに水神宮の石祠(ほこら)が置かれている。

 参道の正面は瓦葺屋根格子戸扉の拝殿で、その奥殿は銅板葺屋根、その裏は満々と水をたたえた湖のような松伏溜井であり、水のあるときないときそれぞれ趣を添えた眺望が木立を通して見渡される。ところでこの大吉香取神社の敷地は、松伏溜井と鷺後用水路の間にはさまれ、ちょうど湖につき出た出島の形をなしているが、寛永年間鷺後用水路が開発されるまでは、用水路の対岸大吉とは地続きであったのである。また松伏溜井はこの鷺後用水路開削にともなう一連の施工で、同じく寛永年間の開発になるものである。なおこの溜井からは東葛西用水、二郷半領本田用水、同領新田用水などが引水されていた。

 また現在葛西用水を堰止めている堰枠は、大正十三年にストニー式巻揚による近代的な鉄骨に改められたものであり、古利根堰と称されているが、それまでは土橋を兼ねた土堰で増林堰と称され、猿島街道の往来道になっていた。これは文政年間調査による『新編武蔵』に載せられている松伏溜井図を(写真参照)みるとわかるように、当時松伏溜井の堰枠は土橋を兼ねており、欝蒼(うつそう)と繁茂(はんも)した樹木の間から一筋の往還道が土橋に通じていたことが知れる。これが猿島街道である。この道を境におよそ増林村と大吉村に分かれていたが、香取社のある大吉村飛地は瓦曾根溜井分水口、いわゆる逆川(鷺後用水路)によって切り離され、出島のような形になっているのは現在も変りない。大きく変ったのは街道沿いの樹木が伐り払われて商家が建ちならび、鉄筋の堰枠と橋梁がそれぞれ別に設けられたことである。

 それでも古利根堰で堰止められた葛西用水は、今でも鷺後用水路を流れて瓦曾根溜井に導流されているが、江戸時代から明治にかけては、古利根川(葛西用水)の上流から荷を運んできた舟の多くは、松伏溜井から鷺後用水路を下りて瓦曾根河岸に着岸し、ここから荷を積み替え中川を下って江戸に回漕されたのである。このように用水や舟運に重要な役割を果してきた松伏溜井の堰枠は、大吉香取神社から旧一六号線を三〇メートルほど行った所であり、その堰の手前に寿橋と名付けられた橋が架せられている。この橋の手前に瓦葺屋根の古びた堂舎があるが、ここは十一面観音を祀った御堂である。堂前に寛延三年(一七五〇)の山神宮と刻まれた石祠が置かれているが、この付近はかつて欝蒼とした山林であった事は松伏溜井図からも窺(うかが)うことができる。

 なお橋を渡ると松伏町であるが、古利根川に沿った旧蹟を参考までに次に掲げる。

大吉香取神社
松伏溜井図