古利根川通リ松伏町の旧蹟

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 松伏町は北葛飾郡に属している。明治二十二年松伏・田島・上赤岩・下赤岩・大川戸の五村が統合され松伏領村が構成された。その後昭和三十年四月松伏領村と隣村金杉村が合体新たに松伏領が設置されたが、翌三十一年村名を松伏村と変更、同三十七年町制が施行され今日に至っている。

 さて古利根川にかかる寿橋を渡ると松伏町であるが、この橋袂の右手からやや広い河原に出られる坂道がある。ここは恰好な釣場として年間を通じ釣人の絶えない所であるが、当所は江戸時代民部河岸と称された船着場であった。民部河岸とは松伏村の世襲名主石川民部が差配していた河岸場からこのように呼ばれた。この河岸場跡堤上の草叢(くさむら)のなかに、小さな木の祠が人目を避けるように建っている。中には水神宮と刻まれた石祠が納められており水神社であることが知れる。この祠の前には明治三十五年の幟立一対、弘化三年(一八四六)の御神燈一つ、嘉永五年(一八五二)の石の鳥居などがあるが、この鳥居の柱には松伏村関場組中と船持中、それに石川好豹の名が刻まれている。

 またその横に嘉永元年の自然石の句碑が立てられているが、これには「堰枠の水月庵に半日の閑を偸(たのし)むに、古利根川の水いまた涸て土橋は草の青ミ、遠里は杉のむらと聞なと、けにや莫石公も待る風情なり」とあり

 水おほろ 橋はから絵の 人通り 素丸

と読みとれる句が刻まれている。素丸とは俳人の一人でこの句は堰枠近くの水月庵に遊んだときのものとみられるが、くわしいことはわからない。また古利根川の流れに沿った小道を上流に向かって行くと、このあたりは珍しく未開発のままで、昔ながらの山林が続く小道で、くもの巣が顔にかかることもある。この緑の木立を楽しみながら進むと、途中石川民部が元和九年(一六二三)に開基したと伝える定水山寿量院静栖寺と称す真言宗智山派の寺院が竹林に囲まれた中にある。

 この静栖寺の垣から山門に沿って長々と横にはった一もとの巨大な松がある。「臥竜の松」と称され町の天然記念物になっているが、松伏の地名はこの松から名付けられたともいわれる。しかしこれは単なる伝説であろう。また室町後期の作といわれる十六善神図が寺宝として保存されているが、これも町の文化財になっている。このほか石川民部家の墓所も町の文化財になっているが、ここには慶長十四年(一六〇九)、同十五年在銘の巨大な宝篋印塔墓石群をはじめ数多くの五輪塔墓石などが整然とならべられている。

 この石川家については元和元年(一六一五)の大坂の役における豊臣家の残党などという説が伝えられているが、慶長十四年などの墓石銘にみられる通り、石川氏は松伏村土着の中世来の土豪層であったに違いない。徳川氏関東入国後庄内古川筋の新田開発に力を入れたが、同時に開発地を中心に二一ヵ寺といわれる寺院を創建した。この寺を俗に民部寺と呼んでいる。その後も石川家は世襲で松伏村名主を勤めるかたわら、松伏溜井見廻役、戸田五助組野廻役、江戸川普請工事惣代役、越ヶ谷大沢寄場組合大惣代役などを兼帯、苗字を許される身分にあった。なお石川家は古くから近郷切っての大高持であったが、安政二年(一八五五)現在高五二〇石余を所持した。これは例えば越谷でも下間久里村、恩間村、大間野村、麦塚村などの村高とほぼ同じ石高にあたる。現在石川家の屋敷は人手に渡ったが、その屋敷跡には今でも巨大な土蔵が残されている。

 このほか川沿いの近くに江戸時代昆沙門堂領として寺領高三石を与えられた御朱印寺松花山宝珠院多聞寺と称す真言宗寺院がある。以前この宝珠院の傍らに運慶の作といわれる昆沙門天を祀った堂舎があったが、寛政年中火災に遭った。このとき運慶作といわれる昆沙門を宝珠院に移したとあるので、今でもこの像は宝珠院に安置されているかも知れない。また川沿いに香取社など由緒ありげな神社などがあるが細部にわたっては省略したい。

民部河岸跡の碑
静栖寺石川家墓所