大吉徳蔵寺

9~11/222ページ

原本の該当ページを見る

 大吉香取神社を後にして新方橋を渡ると松伏溜井に沿った大吉の地である。古くは芦(よし)の繁茂する沼沢地であったので、大芦とも記されたといわれるが、事実大吉の地は周辺村々に比較して水吐けが悪い底地の一角であり、江戸時代からしばしば水害を受けていた地である。だがその反面松伏溜井や鷺後用水路をそばにひかえて、ここからの景観はとくに見事であったとみられ、『新編武蔵』には「川傍に堤あり、堤上より望めば増林関枠の辺りより川二つに分れ、一は本流にて、一は葛西用水の方へ流れる。春は松伏領数村の桃樹数千株打並び、花の頃は景色いとよし」と大吉堤からの眺望を賞している。当時越谷から松伏にかけては桃の名所でもあったのである。

 このように花の頃の眺めいとよしと賞された大吉の溜井ずたいの堤防道は、明治期に県道に指定され、平方東京線と称されてきたが、その道幅はようやく五メートルほど、しかも舗装道路になったのもそう古いことではない。この道をおよそ一〇〇メートルほど行くと堤防上の道は二手に分かれまたすぐ一本に合わさる。この二本の道にはさまれただ円形の地は、現在一部の沼地を残し住宅や畑地になっているが、おそらくここはかつての古利根川洪水時の切れどころで、もとは沼地であった所であろう。

 この内側の道に面して寺院がある。青竜山徳蔵寺という真言宗寺院である。入口に瓦葺の不動堂とトタン葺の集会所があり、その間の小道を入ると銅板葺の山門である。山門前からその左手は墓地になっている。墓地の端には墓石とならんで文政八年(一八二五)の六十五貰目と刻まれた力石や文化十四年(一八一七)と文政十年の六地蔵陽刻供養塔が置かれている。また山門をくぐるとその左手の生け垣に沿って宝暦十年(一七六〇)・享保□年・文政六年の青面金剛庚申塔、文化二年と文政六年の文字庚申塔が墓石とともにならべられている。

 この庚申塔群にならんで小さな大師堂があるが、ここに掲げられた昭和九年の扇子型の額には「いへもみ(身)も ともにさか(栄)ひて かきりなく ふくとくちい(智恵)をさづけたまいよ」との御詠歌が記されている。この大師堂の傍らには、昭和四十二年建碑の慰霊碑が建てられているが、この裏面には大吉出身の大平洋戦戦没者七名の名が戦没地とともに刻まれている。このほか瓦葺の本堂前には元治元年(一八六四)建碑の青竜大権現と刻まれた自然石の供養塔がある。

 また山門の傍らの生け垣の中は、徳蔵寺歴代住職の墓所になっている。このなかに明治二年没年の「慈照院寿山光永居士」とある墓石がまじっている。その台石には筆子中と刻まれ、松伏・増林・向畑・大吉などの、寺子師匠の教え子とみられる数十人の氏名が刻まれている。徳蔵寺は江戸時代寺小屋の教舎に利用されていたとみられるが、この筆子中による墓石は、その戒名からみておそらく僧侶ではないであろう。なお徳蔵寺は明治十八年七ヵ村組合立の学校が向畑から当寺に移され大吉学校と称されていたが、同十九年には再び向畑の観音堂に移され、明治二十二年の町村合併のときまで向畑学校と称されていた。

 この徳蔵寺の裏は、樹木を画して一望の水田地が広がるが、その向こうには水田地を屛風のように遮(さえぎ)って新興の住宅群が一列につらなる。新方地区を貫通する新方川(千間堀)を境に、急激な変貌をみせた弥十郎の住宅群である。また新方川手前の水田地にも、昭和五十年四月開校の弥栄小学校が建てられており、新方の水田地は次第に狭ばまれていく感じである。しかし鷺後用水路に沿った大吉の一角に造成された住宅団地を除いては、昔ながらの集落を中心としたまだ静かな地域である。

逆川分水口
大吉徳蔵寺