向畑の集落と華光院跡

11~13/222ページ

原本の該当ページを見る

 この静かな集落の間の小道を行くといつか向畑の地に入っている。向畑は文政五年 (一八二二)当時、民家六〇戸を数える標準的な村であったが、『新編武蔵』によると古くは大吉・川崎・大杉・大松・船戸五ヵ村持添の向畑で、元禄年間に独立した村であると記されている。しかし寛永六年(一六二九)の大松清浄院寺領検地帳には、向畑村と明記されているので、古くから一村の形態を具えていたともみられる。現在都市化の進んでいる越谷のなかではもっとも農村的なたたずまいを残している地域の一つで、よく耕された葱や菜畑のなかに屋敷林を囲った農家が散在する。集落地のほとんどはもと畑地であったが、畑地のなかに水田がまじっているのは、おそらく明治期以降畑地を水田にした掘揚田であろう。

 集落をつらぬく主な道は舗装されているが並木のある小道を行くと、その路傍に文政十二年(一八二九)の文字庚申塔がみかけられる。これには「津切橋・皿沼橋・根堀橋・台畑橋四ヶ所石橋願立」と刻まれている。おそらくこれは用水堀に架せられた石橋の架設を記念して造塔された庚申塔であろう。このほか小道に沿った木陰に宝暦七年(一七五七)の石祠が置かれていたり、一叢の藪の中に小さな墓所があったり、人通りもない道にしらこばとが遊んでいたりして長閑な集落のなかの散歩道といえる。

 再び道を堤防道に戻り、古利根川の景観を賞しながらしばらく行くと、道の傍らに墓所がみえる。通称千手観音堂と称されているが、江戸時代は華光院と称された真言宗寺院であった。堂舎は現在トタン葺の集会所になっているが、堂前の路傍に文化二年(一八〇五)、同三年の文字庚申塔、延宝元年(一六七三)の三猿陽刻庚申供養塔、元文三年(一七三八)の青面金剛庚申塔、それに文久元年(一八六一)の自然石による普門品読誦供養塔、明治十一年の同じく自然石の「三十六童子」と刻まれた石塔がならべられている。このほか最近コンクリートの堂舎に改造された二つの不動堂が建てられている。

 また墓地の中には文化二年(一八〇五)の普門品供養塔、風化してその銘も読みとれない六地蔵尊塔、天明元年(一七八一)の「奉称念仏壱億万遍」と刻まれた念仏供養塔、寛政五年(一七九三)の廻国供養塔、それに力石などが墓石の間にならべられている。古い墓石はみあたらないが、なかに寛政十年(一七九八)没年の「一音演聲信士、施主江戸源八」と刻まれた珍しい戒名の墓石がある。この墓の主はあるいは生前芸人であった人かも知れない。

向畑華光院跡前の古利根川