向畑香取神社

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 今はその面影もない向畑の陣屋跡を後にして堤防上の道を少し進むと、舗装道は二手に分かれるが左方の道は新道である。このうち右手の堤防上の古道を行くと元文三年(一七三八)の石地蔵を祀った瓦葺の堂舎と、銅板葺屋根に格子戸の大師堂が道をはさんで建っている。この地蔵堂の裏は草葺屋根の農家をおいて古利根川の河川敷に続くが、その一角は地盛りされて整地されている。その片隅に木の祠が置かれているが、この中には下部がセメントで固められた年号不詳の釈迦複合三尊板碑が納められている。この板碑は大正の末期当所から馬の骨などとともに出土したもので、通称「藤原様」と称され、先達の指導のもとに参詣者が群をなしたと伝える。おそらくこの板碑に「藤原」の銘があったので藤原様と称されたとみられるが、地元では向畑陣屋の伝説と関連させこの地を古戦場の跡であると伝える。

 ここから少し行くと、家並が吐切れて畑地が広がり、昭和四十五年鉄筋三階建に改築された新方小学校の校舎がはるかに見える。またその右方にこんもりした樹木の茂みが続くがこの林の中が向畑の鎮守香取神社の境内地である。入口は林からかなり手前の左に折れる砂利道で、さらに畑の中の畔道をつたつて行かねばならない。境内の入口には天保十三年(一八四二)の石の幟立と天保八年の敷石建立と刻まれた柱状形の供養塔があり、その先に昭和三十年建立の花嵩岩の鳥居がある。

 鳥居をくぐったところに嘉永五年(一八五二)の御神燈の台石と、文政二年(一八一九)の御神燈それぞれ一対、左手の朽ちた木の祠の中に文化十二年(一八一五)の水神宮の石塔が納められている。また右手の草むらの中に明治四十年建碑の記念碑が建てられている。この碑銘によると、当社の境内附属地一反二畝歩は、明治六年上地となって国有林に組み入れられていたが、明治三十五年売り払いの告示があったので、氏子一同は協力して境内地の払い下げをうけ改めて杉苗木を植林した旨が刻まれている。境内は根杏や欅の大木が生い茂っており、銅板葺屋根の神殿の裏は杉木立で昼なお暗い尊厳な神域の面影を残している。

 香取神社を後にしてもときた堤防沿いの道を進むと、道はT字路に突き当たる。このT字路の左手、畑地の先の農家は浜野姓を称す家であるが、この家の幕末期の先祖に棒使いの名人がいた。通称鼠左平太といわれ、草加の松並木で旅人を襲(おそ)う悪党を棒を使って退治したと伝える。現在でもこの家には武具に使用されたという長さ五尺八寸、直径一寸五分の樫の杖が家宝として保存されている。また浜野家の屋敷神を祀った祠には、その神体として折れたさび刀が納められている。この刀はかつて向畑陣屋新方氏が戦いに使用した古刀の一部であることを伝えている。

向畑の香取神社