T字路の道を左に曲がったところに堂舎がある。通称観音堂と呼ばれているが、もとは梅竜山千蔵院と称された真言宗寺院である。明治十四年新方地区七ヵ村組合立の向畑学校がこの観音堂を教舎に開校したが、現在の新方小学校の前身ともいえる。やや広い境内地には銀杏の大木が数本、右手はこんもりした山林であるが、瓦葺の堂前は畑に利用されている。この畑の両端に堂舎に通じる小道がある。このうち右端の小道に安水五年(一七七六)の青面金剛庚申塔と宝暦五年(一七五五)の「奉需庚申供養為二世安楽也」と刻まれた文字庚申塔がたてられている。右手は山林である。この中に小高い丘があり、丘の上に祠があるが神体は不明、祠の前に稲荷の石祠などが置かれている。
また観音堂の本堂前に通じる左端の小道には、文化十一年(一八一四)の文学庚申塔と年代不詳の青面金剛庚申塔、寛文十一年(一六七一)の観音供養塔、嘉永二年(一八四九)の馬頭観音供養塔、享保五年(一七二〇)の笠付六角六地蔵塔、それに明治二年の再建になる塔の台石に「不見 不聞 不言」と刻まれた自然石の文字庚申塔がある。この明治年号の庚申塔は越谷地域では唯一のもので、珍しい石塔の一つに数えられるが、その裏面には「孝心」とあり、「庚申さまをよくおがめ、おがむその身ハすくにかうしん」と刻まれている。
庚申を孝心に置き替えた教義は、鳩ヶ谷町小谷三志の教導による不二孝(不二講)にみられるといわれるが、不二孝との関係はつまびらかでない。しかし向畑の隣村大杉村の百姓庄七(関口)は熱心な不二講の信者で、弘化四年(一八四七)六月多くの同志とはかり、不二道の教義にもとずき善政を要望する訴状を同志二人に託し、大目付深谷盛房を江戸城平川門外に待ち受けさせて直訴に及んだ。深谷盛房は二人の者を本郷の自邸に留置し説諭を加えて放免したが、その三日後に再び湯島天神前で盛房に訴状を捧げた。そこで盛房は直訴人を勘定奉行牧野成綱に引き渡したが、これに対し成綱は訴え出るには村役人そして地頭あるいは代官を経たものでなければ受理できぬ旨を諭(さと)して放免した。
そこで庄七は同年七月村役人の添翰(そえかん)を付し代官青山緑平役所に訴えでた。代官所では正式な手続きをとった訴状であるので、これを勘定奉行所に廻したが、これを受理した勘定奉行所では、一件取り調べの上改めてこれを寺社奉行本多忠民役所に送付した。こうして寺社奉行本多忠民の掛りで十数回にわたる吟味が進められたが、その結果翌嘉永元年九月直訴関係者に対する咎めはなかったが、世人を惑わす教義であるとして不二講の禁止が申し渡された。このため不二講の活動は幕府によって大きく規制されたが、庄七はその後も三保という称号を用い不二講教義の布教につとめていたとみられ、万延二年(一八六一)、文久元年(一八六一)、元治元年(一八六四)の三保署名による食行身禄御伝書ならびに不二講教義の著書が越谷市内の旧家に残されている。したがって大杉を中心とした新方地区の不二講は、当時庄七の布教でその影響が強かったと考えられるが、現在庄七に関する諸資料はもちろん、その伝承などについても全く残されていない。
さて観音堂の左右とその裏は墓地になっている。あまり古い墓石はみあたらないが、万治四年(一六六一)銘の入った宝篋印塔墓石などがある。この左手墓地の脇は生け垣を境に上川崎の領分となり、そこは聖徳寺の参道となっているが、これは次のコースに譲りひとまずもとの道に戻ろう。観音堂を出てT字路をそのまま直進すると古利根川に出る。この右手の川端に鉄筋平家の落ち着いた感じの建物が見えるが、これは昭和四十四年開設の養護老人ホーム順正苑である。その先の橋は堂面橋と称される橋であるが、これは昭和二十九年町村合併の際、新方村がその架橋を合併条件の一つに示したもので、それまでは堂面渡しと称された渡し舟が唯一の渡河機関であった。合併後まもなく木橋が架せられたが、最近鉄筋橋に改造された。この橋からの古利根川の眺望は、水のあるときないときそれぞれ趣のある眺めをみせ水郷越谷を偲ばせてくれる。野田発北越谷駅行のバス停は橋を渡った所の松伏という停留所である。新方橋からの行程およそ三キロメートル、家族ずれで水郷気分を味わうには恰好の散策コースである。