川崎聖徳寺

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 北越谷駅発野田行東武バスを松伏停留所で下車、古利根川に架せられた堂面橋を渡り向畑観音堂前に出ると、その隣りは垣をへだてて川崎の浄土宗太子山聖徳寺の参道である。なお川崎は明治十二年の郡制施行の際北川崎村と改称されたが一応川崎としておく。参道は舗装道になっているが、その入口に聖徳太子霊堂と刻まれた柱状型の石塔が建てられており、その傍らに昭和三十五年建碑になる東国縁起と刻まれた自然石の碑がある。これには「当山ハ太子山聖徳寺ト号シ慶長年間学徳兼備ノ観誉源翁(応)上人開基ニシテ、師ハ夙(つと)ニ太子奉讃ノ念厚ク、念仏弘通ノ傍ラ当時未開ノ関八州ニ太子聖徳ヲ宜兌巡教、各地ニ太子講ヲ結バシメ、晩年錫ヲ此ノ地ニ止ム、人呼ンデ太子講発祥ノ霊場トス、本講結成二十五年東京聖拝講社」などと刻まれている。ちなみに聖徳寺は江戸時代大松清浄院の末寺であったが、清浄院の末寺帳によると、聖徳寺の開山僧観誉源応は清浄院中興文誉上人の代天正二年(一五七四)清浄院の末寺に入り、慶長二年(一五九七)遷化したとあるので、聖徳寺の開山は天正以前のことであったかも知れない。それはともかくとして参道の両側にはコンクリートの角石による柵が立てられているが、その石柵には東京・吉川・松伏などの聖拝講や越ヶ谷の太子講などのそれぞれの奉納者名が刻まれており、信仰範囲の広さを窺わせている。この石柵が絶えた所に天保九年(一八三八)の普門品供養塔が置かれているが、その向かいに瓦葺屋根の小さな堂舎がある。堂の前には文久二年(一八六二)奉納の御手洗石が一つ置かれており、堂舎の囲りには満願成就御礼の赤や白の布旗や、板木の塔婆が数多く立てかけられている。

 堂の中には岩塩でつくられた地蔵尊像が祀られているそうであり、梅雨の季節などには地蔵の表面に塩分がふき出てくるといわれ、通称塩地蔵と称されている。とくに安産や子育てで霊験あらたかといわれ、縁日には参詣人で賑わうという。伝えによるとこの地蔵は、聖徳太子が守屋を誅したとき、守屋が地蔵の化身であるのを知った太子が、早速供養のため地蔵を彫刻したといい、これがそのときのものであるという。

 この塩地蔵の先は杉の若木が両側につづくが、その木の下に宝暦四年(一七五四)の湯殿山大日如来と刻まれた供養塔、文政九年(一八二六)の馬頭観音供養塔、寛政十二年(一八〇〇)の普門品供養塔、元禄九年(一六九六)の青面金剛像庚申塔、宝暦五年の庚申講供養と刻まれた石塔、寛政九年(一七九七)の還到本国と刻まれた六臂の菩薩陽刻塔、文化三年(一八〇六)の「南こしかやミち、此方西の(野)みち、北かすかへ」と道しるべを兼ねた文字庚申塔、同じく嘉永五年(一八五二)の文字庚申塔、文政元年(一八一八)の青面金剛と刻まれた文字庚申塔が一列にならべられている。この先はブロック摒に囲まれた墓地であるが、さほど古い墓石は見あたらない。この墓地の裏は畑地でその先は古利根川の流れである。

 また舗装された参道のはずれに瓦葺屋根の山門があるが、山門の左手の墓地の一角にも、天保四年(一八三三)、同十年、同十五年、安政五年(一八五八)の四基の文字庚申塔が置かれている。山門をくぐると正面は関東大震災後修覆されたという草葺屋根の本堂である。境内は広くはないが、さらに庫裏の前に三抱えほどの銀杏の大木が境内をせばめて茂っている。普段はひっそりした寺内であるが、例年五月五日の縁日には、近郷はもちろん東京その他からバスを仕立てて参詣にくる太子信仰の職人衆でうずまるという。

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