川崎神社

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 聖徳寺を後にし、山門左わきのまるで農家の庭先のような感じの小道を行くと、幅の広い舗装した道に出る。これを右に行くと新道は吐切れて古利根川に沿った細い小道になる。その道に沿って繁る藪の下に寛政五年(一七九三)の水神宮と刻まれた石祠が置かれている。もと当所には吾妻権現社という神社が勧請されていたが、川崎神社に合祀され今はこの水神の石祠だけが残されているという。またこの石祠の前から古利根川の河原に通じる道があった。そこはもと権現河岸と称された渡し場であったそうである。

 さて木立の中に通じる小道を進むと、やがて目の前は広がり畑地となるが、正面にこんもりした一叢れの杉林が目につく、ここが川崎の鎮守香取神社であるが、今は川崎神社と呼ばれている。神社の前は拡幅舗装された県道平方東京線である。この県道に沿った入口の両側に天保十一年(一八四〇)八十貫目、文久二年(一八六二)百貫目と刻まれた大きな力石が置かれている。その左後ろに天保十二年と弘化二年(一八四五)の自然石による敷石供養塔が立てられている。その参道をはさんだ向かい側に瓦葺木造の堂舎があるが、これがもと古利根河畔に勧請されていた吾妻権現社であるという。この先に昭和五十一年奉納になる花崗岩の鳥居があり、その先に日露戦争記念と刻まれた花崗岩の幟立、大正十一年の御神燈、文政十年(一八二七)の屋根囲いの御手洗石、安政二年(一八五五)の阿迦獅子一対、それに明治四十年建碑の日露戦争戦利兵器奉納記念の碑などが立てられている。この戦利兵器は弾丸と携帯用サベル(スコップ)であるが、これは瓦葺神殿のひさしの下に飾られている。

 この神殿の左裏手は盛土の丘になっており、その丘の上に自然石に仙元大菩薩と刻まれた碑が木の祠の中に納められている。境内はやや広いがその片側にはブランコなどが具えられ、子供の遊び場に利用されている。なおこのあたりは、県道に沿っては新しい住宅や工場なども若干みられるが、県道から離れると屋敷林に囲まれた農家が散在する昔ながらの集落で、畑地には梨畑などもみられる静かな地域である。

北川崎の古利根川河畔
川崎神社