川崎神社を後にして県道を北へ少し進むと左手にブロック摒で区切られた新方小学校の校舎裏に出る。この先は信号のついた十字路であるが、この十字路を右手に折れた道が県道平方東京線である。この県道を少し行き数軒の住宅を過ぎて右手の舗装道に入ると、左手の畑地の先にこんもりした木立がみえる。ここがもとは稲荷神社と称された大杉の鎮守大杉神社である。
畑の中の細道をつたって木立の中に入っていくと花崗岩の鳥居があり、その横に文化六年(一八〇九)の文字庚申塔が一基置かれている。境内には銀杏や杉や松の大木が数本、その下に雷電宮や榛名宮の祠が四柱ほどならべられている。神殿は銅板葺屋根格子戸づくり、さほど大きな神殿ではない。社殿の裏は集会所になっているが、ここはもと医王山浄閑寺と称された浄土宗寺院であったようである。この浄閑寺の開山僧は清浄院由緒書によると、竜天和尚と称し天正元年(一五七三)清浄院の末寺になったが文禄二年(一五九三)に遷化したとあるので、浄閑寺は天正年間頃の開山であることが知れる。このほか松伏村石川民部開基二一寺の一つである揚柳山妙音寺という真言宗寺院が大杉にあったが、今はその所在はわからなくなっている。
また大杉には天保年間から幕末にかけて、その雅号を三保と称した不二講の熱心な信者がいた(向畑観音堂と大杉村庄七の項参照)。三保の俗名は庄七といい大杉新田の旧家関根家の先祖であることが確認されているが、この家には庄七に関する資料は残されていないという。大杉新田とは新方小学校わきの四辻を西に向かう幅の広い舗装された市道を数百メートルほど行った所である。もとこの市道は農道の一つで左右すべてが水田であったが、現在、この市道に沿って越谷市第二給食センターや昭和四十九年開校の北陽中学校、県立越谷養護学校その他二、三の工場の建物などが建てられている。しかしそのほかはまだ一面の水田が広がる農村部である。
このうち越谷養護学校前の市道に沿った数軒の住宅地の裏に、大杉新田の鎮守稲荷神社がある。住宅と水田の間の畔道を入ると花崗岩の鳥居がありそれとわかる。狭い境内には銀杏や欅、松の木などが数本、その木の元に天保十三年(一八四二)の水神宮塔、寛政十一年(一七九九)の青面金剛庚申塔、天保十三年の猿田彦太神塔、それに年代不詳の疱瘡神の石祠が置かれている。また丸いたくわん石に囲まれた基標と刻まれた石柱が埋められているが、これは測量の基石となるものであろう。神殿は奥まった所にあり、朱塗りで銅葺屋根の祠(ほこら)のような小さな社(やしろ)である。