大松清浄院

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 道をもとに戻り、大杉神社前の曲折した道を少し進んで左に入った所が、幾多の伝説を残す大松の浄土宗栄広山清浄院浄土寺である。当寺の開山僧は宝徳元年(一四四九)に没した賢真上人と伝える(『新編武蔵』)が、清浄院の由緒書によると、賢真上人は嘉慶元年(一三八七)七月二十八日の遷化で、例年この日に開山忌を勤めていると記されている。また当寺は古くから新方領六ヵ村の領主でこの地の地頭新方氏とは同族関係にあり、領地の争奪で八条氏などとしばしば戦いを交えていたようであるがこれは向畑陣屋の項を参照されたい。

 その後天正十八年(一五九〇)徳川家康関東入国のとき、東新方領の領主という古来からの由緒により、東新方領村々のうち計一二石の寺領を与えられた。その反別は寛永六年(一六二九)の寺領改検地帳によると、船渡村・大松村・大杉村・川崎村・向畑村五ヵ村のうち田畑合わせて二町八反七畝一八歩の地であった。ところが寺領一二石の朱印状(将軍の証書)は、手続きなどの遅れからか交付されなかったので、寛永六年の寺領改めの際「右の分神谷弥五助殿御縄(検地)の時分、弥五助殿、備前様(伊奈忠次)と談合なされ、御朱印御取り下さるべき由にて御除(除地)候」とて、改めて御朱印の交付を願ったが、これに対し寺領改め役人は、幕府御年寄衆(後の老中)に相談されたらよいと答えていた。こうして清浄院に御朱印状が交付されたのは慶安元年(一六四八)のことであった。

 いずれにせよ五ヵ村にわたって寺領を与えられた例は珍しく、六ヵ村栄広山と称される清浄院由緒の一端を窺わせている。

 さて清浄院の山門に通じる道はもと杉並木であったが、今は拡幅舗装され、右手は清浄院経営の幼稚園になっている。枝ぶりのよい松の大木のもとに瓦葺屋根の朱塗りの山門があり、山門前に天明八年(一七八八)の「新阿弥陀六番」と刻まれた柱状型の石塔と、昭和五十年建立になる開宗八〇〇年記念の南無阿弥陀仏塔が立てられている。境内は手入れが行きとどいた庭木や草花がほどよく配置され、庭園のような趣をみせている。

 その右手は鐘楼であるが、これには昭和四十四年鋳造の大きな梵鐘がかけられており、定められた時刻には音色のよい音を響かせているそうである。

 また左手の生け垣わきには昭和五十一年奉納になる六地蔵や寛文八年(一六六八)の観音供養像塔、正徳三年(一七一三)の地蔵供養像塔などが置かれている。本堂は瓦葺であるが、昔ながらの古い建築物に見うけられる。

 当寺には、古い過去帳や六ヵ村栄広山由緒著聞書といった伝記本をはじめ若干の古文書が残されているが、このほか嘉暦二年(一三二七)在銘の弥陀一尊板碑をはじめ、観応元年(一三五〇)、貞治五年(一三六六)、嘉慶二年(一三八八)、宝徳二年(一四五〇)、文明六年(一四七四)、その他賢真上人との銘が刻まれている宝徳元年(一四四九)のものや年代不詳の板碑が多数保存されている。

大松清浄院