この墓地の西はずれ、棕梠や杉・欅などの樹木の下に一列にならべられた墓石がある。これが大川戸(松伏町)杉浦家歴代の墓所である。このなかに「定元院殿乗誉覚心義道大居士」「大乗院殿西岸春東居士」「円乗院殿光誉圍吟大姉」「定孝院殿長誉慈心養道居士」と刻まれた供養墓石がある。江戸時代院殿居士号は武士にしか許されなかった戒名であるが、杉浦家歴代の墓石はいずれも院殿居士号が用いられている。それでは杉浦家とはどのような家柄であったろうか、まず供養墓石の側面に刻まれた銘文からみていこう。
これには定元院「濃州竹ヶ鼻之城主杉浦五郎左衛門定元、慶長五年庚子八月二十一日籠城討死」大乗院「御代官杉浦五郎右衛門定政、定元之長子、慶長十八年癸丑二月十六日於支配所秩父郡卒」円乗院「杉浦定政之室、深津弥右衛門女、寛永二十一年甲申二月二十六日卒」定孝院「杉浦勇次郎定孝、定元之二子、定政之弟、慶長五年庚子八月二十一日与父定元共籠城戦死」とある。
すなわちこの墓石は大川戸杉浦家の祖五郎右衛門定政とその妻、及び定政の父である美濃国竹ヶ鼻の城主五郎左衛門定元、ならびに定政の弟勇次郎定孝を供養した墓石である。このうち定元と定孝は大坂の豊臣方に加担し慶長五年(一六〇〇)八月、東軍の先鋒福島正則の軍勢に攻められて討死した。一方杉浦定政はこの先徳川家康の懐刀関東代官頭伊奈熊蔵忠次のもとで関東の代官を勤めていた。忠次の室と定政の室は、ともに深津弥右衛門の娘であった縁故からである。杉浦家由緒書によると、関東にあった定政は高三〇〇石を知行したが、船橋五日市場に屋敷を拝領していた。その後慶長十三年(一六〇八)下総国船橋意冨比皇大神宮の再建にあたり、伊奈忠次のもとで添(そえ)奉行を勤めたが、同年八月皇大神宮の竣功を賞され、家康から葵の紋のついた棗(なつめ)や薄茶容器を賜った。この茶器は今でも杉浦家に保存されている。
ところがこの皇大神宮の敷地は、定政の拝領屋敷に重(かさ)なっていたため定政は船橋の屋敷を立ちのき、伊奈忠次の屋敷に同居していた。こうしたことから忠次の口添えにより、大川戸の陣屋御殿を家康直筆の坪割書とともに定政が拝領することになった。この陣屋御殿とは慶長五年会津上杉討伐に野州小山まで出陣した家康が、その帰路大川戸に立ちより、当所に陣屋を設置するよう伊奈忠次に命じた。忠次はまたこの陣屋の構築を定政に命じて造成された御殿である。現在の杉浦家屋敷地がその一部であるが、元禄八年(一六九五)の屋敷地書上げによると、構内惣反別六町一反余歩、屋敷の周囲には幅二〇間と一三間の堀がめぐらされ、その内側は藪敷の築山によって囲まれているという竪固な砦(とりで)ようの構えであった。これは明らかに関ヶ原戦に備え、上杉氏などからの江戸攻略を防禦するために造成された陣屋の一つであったとみられる。こうして大川戸の御殿を拝領した定政は、引き続き秩父の代官を勤めていたが、慶長十八年(一六一三)秩父で病没、伊奈忠次の廟所鴻巣勝願寺に葬られた。
当時定政の嫡子定次はまだ幼少であったため伊奈家に預けられていたが、元和五年(一六一九)世継ぎの急死から伊奈忠次家が改易になったため浪人として大川戸に引籠(ひきこも)ったという。その後杉浦氏の子孫は伊奈忠次家の別家関東郡代伊奈忠治家に仕(つか)え、寛政四年(一七九二)伊奈忠尊失脚のときまで、代々伊奈家の有力家臣として地方統治に大きな功蹟を残した。
また『新編武蔵』によると、元文二年(一七三七)杉浦家屋敷内に祀(まつ)られた東照宮の社前から、古びた石室(いしむろ)が掘り出されたが、この石室の中に腐蝕した甲冑と太刀二振が納められてあった。杉浦氏はこの石室を清浄院に改葬し、その上に地蔵の碑を立てたとあるが、現在石室はもちろん地蔵の碑も不明である。さらにこの甲冑や太刀は『吾妻鏡』に散見される源頼朝の御家人大川戸氏のもので、杉浦家屋敷はもと大川戸氏の館跡であったという説もあるが、これも確かなことは不明である。