清浄院墓地裏の梅の古木が交る一叢れの林の間を抜けて行くと、突き当たりは江戸時代大松村の名主であった長野家の屋敷地である。今でも萱葺屋根の住宅を保持しているこの長野家は、もと「四郎兵衛様」と称された近在切っての高持で、明治期には渋沢栄一氏とも縁戚になっていたと聞く。この屋敷に続く路傍に、長野家所持の勢至堂と呼ばれる木の小さな祠がある。この祠の中にいずれも欠損したものだが、嘉吉四年(一四四四)在銘の弥陀三尊板碑、文明五年(一四七三)の十三仏板碑、その他明応六年(一四九七)在銘の板碑などが納められており、清浄院保管の板碑と合わせると、その板碑の所在は当所に集中している感がある。
もともと大松など古利根河畔の地は、市内の中でも海抜七、八メートルという高い標高であり、古くからの地であるのはこれら板碑の所在などからも知ることができる。なお大松村は江戸時代周辺村々とともに当初から幕領に置かれていたが、当村だけは宝暦六年(一七五六)から岩槻藩領に組み入れられた。村高は二〇九石余、反別で二七町歩余、戸数二三戸という小さな村であったが、現在でも戸数は四〇戸、長野本家をはじめ今でも長野姓の農家が多く、人口の急増を示している越谷では珍しく変化の少ない所といえる。それだけに今でもこの辺りは屋敷林に囲まれた古くからの農家を中心とした閑静な地域で、小鳥の囀(さえづ)りを求めながら人影もない小道をそぞろ歩きするには恰好の所である。樹木に覆われた長野本家の屋敷裏の道を西に向かって行くと県道平方東京線に出る。これを右折するとすぐ左側の農家の摒ぎわに柱状型の大きな石塔が立てられている。一つは「一千日念仏成就供養」と刻まれた享保八年(一七二三)の供養塔であり、その一つは正徳六年(一七一六)の「大乗妙典六十六部回国」と刻まれた笠付の供養塔である。その先は道が左にカーブしているため、道は神社の境内に突き当たるようになっているが、ここが大松の鎮守香取神社である。
境内は狭い方であるが、神殿の後ろは松や欅の大木が数株生い茂っており荘厳な神域の趣を残している。また銅板葺屋根朱塗りの神殿前横に、神木といわれる根元から二股に分かれた銀杏の木が植えられている。数年前落雷のため倒れたといわれ、焼け枯れた上部を切りとって植え直されたが、強い生命力のもと枯れずに若葉を茂らせている。
さて境内には昭和十四年奉納の花崗岩の幟立と鳥居、大正十四年の「記念」と刻まれた屋根囲いの御手洗石、昭和四十九年奉納の阿迦獅子一対、また神殿の裏手に元禄十二年(一六九九)の青面金剛庚申塔、天保四年(一八三三)の普門品一万巻供養塔、それに木の祠が三基ほど置かれている。大松香取神社を後にして、所どころ榛の並木が残っている県道を北に向かうと左手は遠くみはらしのきく水田地、右手は集落を背にした畑地が開けまもなく船渡の地となる。