大松香取神社から道幅の狭い曲折した県道をおよそ五〇〇メートルほど進むと道は俄かに拡幅された上下一車線の広い道になる。五メートルほどの狭い県道平方東京線は、いずれはすべて一車線の広い道に改められるとみられるが、今の処部分的に拡幅工事が進められているに過ぎない。この拡幅された県道を少し行き、右手の道を入ったところが仏説山無量院と称される浄土宗寺院である。清浄院由緒書によると、無量院の開山僧は三誉相雲と称し、永禄十年(一五六七)清浄院の末寺となり、天正二年(一五七四)八月に遷化したとあるので、当寺は永禄十年頃の創立になるものであろう。
寺の入口はブロック摒になっているが、中に入ると享保三年(一七一八)の六角六地蔵塔と阿弥陀像を納めた小さな堂舎、享保三年の六地蔵陽刻供養塔それに宝永七年(一七一〇)の六地蔵陽刻供養墓石などが置かれており、その先は瓦葺朱塗りの山門である。山門をくぐった参道には杉の若木で垣がつくられており、その両側は墓地になっている。墓地にはあまり古い頃の墓石はみあたらないが、なかには享和元年(一八〇一)の四国西国坂東秩父順礼供養塔がまじっている。船渡にはこのほか真言宗寿栄山福王院、同宗高富山南泉院、浄土宗弘福山竜正寺の寺院があったが今は堂舎はなく墓地だけが残されている。おそらくこの寺院跡の一つとみられる墓地が、無量院から県道を少し行った右手の畑地の中にある。小さな墓地であるがなかに寛永期の宝篋印塔墓石が三基ほどあり古い墓地であることが知れる。この墓地に接し新しい住宅が建てられているが、その裏に寛文十一年(一六七一)の観音供養塔や六地蔵などが横倒しのまま置かれている。こうした墓地などもやがては開発の対象となり次第に姿を消してゆくであろう。
さて無量院を後にしてブロック摒に沿った小道を行くと、道の傍らに安永八年(一七七九)の大師の彫像を戴いた石橋供養塔が置かれているが、それから二、三〇メートルほど先が船渡の鎮守香取神社である。入口の道沿いに明治十五年と昭和五十三年奉納の幟立、慶応二年(一八六六)の造塔になる屋根囲いの成田山不動明王像塔、享保十一年(一七二六)の青面金剛庚申塔、文化三年(一八〇六)の文字庚申塔、慶応元年の青面金剛と刻まれた文字庚申塔、それに年代不詳の青面金剛庚申塔、昭和七年建碑になる柱状型の「境内御影敷石奉納記念」と刻まれた碑などがならべられている。また左手の道端の片隅にも、宝暦十年(一七六〇)と延享二年(一七四五)の青面金剛庚申塔、寛政十二年(一八○○)の青面金剛文字庚申塔が置かれている。
やや広い境内には大きな花崗岩の鳥居が建てられており、正面の神殿は瓦葺屋根のしっかりした建物である。プレハブ造りの集会所の前に、大正八年建碑による本殿鳥居建設記念碑が建てられているので、この鳥居と神殿は大正八年の建造であることが知れる。境内には慶応元年(一八六五)と年代不詳の御手洗石、それに数株の松と銀杏の木が残っているが広いだけにがらんとした感じ、しかし神殿の裏手は鬱蒼とした杉林となっている。
また神殿の左方に梅の古木が植えられて円形の土盛塚が築かれている。これには「合祀塚、昭和五十三年築堤」と書かれた木札が立てられているが、この裏には「此所は元下手組無格社香取神社跡、明治四十五年全船渡の七社を合祀、大正八年新社殿に遷宮後に附属建物となる。昭和五十三年十二月東側に附属建物を改築したに伴ない之を滅失した。氏子はその名残りを惜んでこの塚を築いた」と記されている。船渡の七社とは『新編武蔵』によると香取社二、山王社二、天神社、稲荷社などとなっているので、これらが明治四十五年鎮守香取社に合祀されたのであろう。
また神殿の後ろの木立ちの下には小屋囲いの稲荷大明神と刻まれた安永八年(一七七九)の石祠をはじめ、天保十三年(一八四二)の稲荷宮、文化三年(一八〇六)の金比羅大権現宮、安永五年の庖疹痘疹神とある各石祠、それに神名不詳ながら元禄六年(一六九三)銘のある石祠が一列にならべられている。さらに左方の杉林の中に「桜大刀自神・苦虫神・磐長姫命」と刻まれた自然石の碑と、明治十九年建碑による浅間大神の碑が建てられている。
この裏は絶壁のようにそそりたった崖になっておりその下は古利根川の河原である。当所はちようど古利根川の曲流地点にあたっており、自然堤防のきわめて発達した地であるが、古くはこの辺りは渡し場になっており、船渡の地名はここから起こったともいわれている。