桜井村

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 船渡の香取神社を後にして、道沿いに農家や商店が散在する県道を少し進むと、道は十字路になる。このうち堀割に沿った右の狭い道が県道平方東京線であるが、当コースはこの十字路を直進して進むことにする。堀割に架せられた橋から五、六〇メートルほどで桜井地区大泊の地となる。この桜井村は明治二十二年の町村制により、平方・大泊・上間久里・下間久里・大里の五ヵ村が合併して構成された旧村であり、現在行政的には桜井地区と呼ばれている。桜井の村名は古くはこの地が下河辺庄桜井郷と称されていたことによるといわれるが確証はない。

 桜井の地名は史料的に茨城県五霞村の曹洞宗東昌寺文明八年(一四七六)の鐘銘に「大日本下総州下河辺庄桜井郷六国山東昌禅寺」とあり、東葛飾郡桐ヶ作(現関宿町)の上原家系図には、文明年間下河辺庄桜井郷の地を室町幕府から受領してこの地に移ったとある。さらに川辺村飯沼(現茨城県猿島郡)の香取社由来碑に「下総国葛飾郡下河辺庄桜井郷飯沼邨之鎮守」とあるので、桜井郷は現在の関宿付近から庄和町にかけての呼称であったことが知れる。なお桜井とは植物のサクラではなくサク(はざま)と解され屈曲した庄内川(現庄内古川)にはさまれた地から起こったともみられている。

 したがって越谷の桜井村は桜井郷と称された関宿から庄和町にかけての地と近かったことから名付けられたとみられるが、古くは下河辺庄のうち新方庄に属していたのは確かである。いずれにせよ当地は古利根川と元荒川(宝永三年(一七〇六)の河川改修で元荒川から離れる)にはさまれた自然堤防のよく発達した地域で、間久里や大里は条里制の遣名という説もあり、古くからの集落を形成していたことに変りはない。また大泊の地名は安国寺の項で後述する。