大泊観音堂と香取神社

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 桜井地区大泊の地に入ってまもなく県道平方東京線から離れた市道は、車の往来のはげしい道路にさしかかる。この道が昭和五十二年に開通した国道四号バイパスの新道であるが、いま二車線道路の拡幅工事が進められている。この四号バイパスを横断してまもなく右手に松の大木が目につく。ここが大泊の慈眼寺跡と観音堂である。

 参道の入口に花崗岩の幟立が一対、そこを入ると酒や食料品などを売る店があるが、その先は境内地である。最近瓦葺屋根に改められたが、正面の観音開き板扉の古びた堂舎が観音堂で、右手の集会所がもと福寿山慈眼寺と称した浄土宗の寺院跡である。慈眼寺の開山僧は明徳三年(一三九二)の没年を伝えるので当寺は古刹の一寺であったに違いない。

 舗装された参道の左側松の大木の下には、寛保元年(一七四一)の笠付六角六地蔵供養塔をはじめ、享保十年(一七二五)の八臂(ぴ)十一面の観音陽刻供養塔、寛政九年(一七九七)の青面金剛文字庚申塔、昭和二十五年の馬頭観音供養塔、天明元年(一七八一)と正徳元年(一七一一)の青面金剛庚申塔、嘉永七年(一八五四)の自然石による普門品供養塔、寛文九年(一六六九)の地蔵像供養塔が一列にならべられている。またその向かい側には宝暦五年(一七五五)の笠付六角六観音供養塔、萱葺屋根囲いの享保十五年(一七三〇)の御手洗石、それに文化四年(一八〇七)の自然石による慈眼寺一二世瑞誉の墓誌の碑が置かれている。これには「雅ハ正なりと待れハ、日課の暇風流の一句を世に残すてふ〝またもとの くにへ生れむ たねふくへ〟」と読みとれる辞世と思われる句が刻まれている。

 また正面の観音堂は古い建物とみられ、大房薬師堂と同じく左甚五郎建造の伝説を残しているが、本尊には馬頭観世音が祀られており、午の年には馬を引いた近在の馬主達が参詣に詰めかけて賑わったという。さらに観音堂内には明治期のものとみられる出店や参詣人でうずまった観音堂縁日の賑わいを画いた彩色の絵画が揚げられているが、当時の風俗を知るうえで貴重な奉納絵馬といえよう。

 なお観音堂にまつわる左甚五郎の伝説とは、甚五郎がもと一面の杉林であった当所を訪(おとず)れ、石に腰を下ろして休んでいたが、夕暮れになるとともに杉の木を数十本切り倒した。切り倒された杉の木は自然に動きだし一夜のうちに観音堂が建てられた。翌日思いがけない堂舎の出現に驚いた村びとが多勢集ってきたがこの堂には朱が塗られてなかったので、人びとは朱を入れたかめが何処かにある筈だと捜し廻った。ところが堂の傍の楓(かえで)の木に、〝朝日さす夕日輝く花の下〟との歌が記されていたので、その場所を掘ったところ、朱を入れたかめが出てきた、という話であるが、これに似た伝説は何処にも数多くみられるようである。

 さて観音堂の裏は自然のままの杉林になっているが、そこは切り立った崖のような形状であり、その下はもと水田地であった。この水田に利用されていた低地が、平方と大泊を画す相野川とも称された利根川乱流時の一河道跡であり、観音堂ならびにそれにつらなる集落は、相野川によって形成された砂丘を思わせる発達した自然堤防上にあったことが知れる。今はこの河道跡も住宅地に開発されており、その河道跡の面影は次第に薄れつつある。

 また正面からは一見してそれと解らないが、この自然堤防上にある観音堂の左手は、生け垣で区切られた墓所となっている。なかに寛延四年(一七五一)の笠付六角六地蔵塔と、享保八年(一七二三)の燈籠をかたどった六角六地蔵塔があるが、この六地蔵はもと大泊村の名主で明治期にも桜井村村長を勤めた旧家高崎三左衛門家の墓所にあったものである。この墓所はちようど国道四号バイパスにかかったため当所に移されたものであるが、大泊には高崎姓の家が多い。その総本家はかなり以前に大泊を退転して今はその屋敷もなくなっているという。このほか千住の名倉で名の通った、接骨医名倉堂も大泊の住人であったがこの家は元禄期に退転し千住に居を移した。現在大泊に今でも名倉姓の家があるが、この家はその一族であるともみられている。

 観音堂から少し行くと、畑地の中に荒れたままの古びた堂舎と墓地が見える。現在この堂舎は薬師堂と称され、八日の薬師の縁日には老婆が集まって念仏などを奉唱しているが、ここはもと安国寺の末寺長福寺の跡である。大きな墓地ではないが、なかに寛永十年(一六〇五)在銘の宝篋印塔墓石などがある。またこの墓地の斜向かいに瓦葺屋根の堂舎のような構えの家があるが、ここは那倉姓の家である。この家の前に大正十一年建碑による「那倉霊神」と刻まれた碑がある。

 この碑銘には、明治二十五年那倉氏の妻が病いに罹(かか)り二年間病床にあって苦しんでいたが、川通村大戸(現岩槻市)の第六天社の先達から祈禱を受けて全快した。次いで明治二十七年那倉氏の息子が発狂したが、これも先達の加持祈禱により快癒した。そこで那倉氏はこの神恩に報いるため先達の教導を受け、災厄者の救済に当たったが、この災厄除去の祈禱を受ける者は門前市をなした。こうして元武講という講社ができたが講員は日々に増大している旨が刻まれている。当時医療が一般的でなかったため、こうした加持祈禱はどこでも盛んであったようである。

 この那倉霊神から少し行くと道はT字路となり突き当たりは神社の境内地となる。ここが大泊の鎮守香取神社であるが、一見したところ境内はがらんとした広場のようで、神域の面影は薄れているような感じである。それでも奥まった神殿の三方には杉の若木が神域を保つように植えられている。空地のようなその入口には、昭和九年の幟立一対とそれに続いて昭和六年の花崗岩の鳥居、また境内の両側には享保八年(一七二三)の笠がはずれ落ちたままの素朴な御神燈、江戸期のものとみられる成田山供養塔、大正八年建碑になる自然石の水神宮、文化十年(一八一三)の水神の石祠、明治四十年の雷電宮の石祠、宝永元年(一七〇四)の「諸願成就所」と刻まれた石塔、年代不詳ながら古めかしい石祠、それに鳥居を構えた木小屋の中に、明治十九年の自然石による稲荷大神とある碑が納められている木の祠などが置かれている。神殿は銅板葺の格子戸作りで古めかしい感じであるが、昭和六年の改築記念と刻まれた御手洗石があるので、この神殿は昭和六年の改築になるものであろう。

屋根葺替前の大泊観音堂
現在の観音堂
大泊の集落