大泊安国寺

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 ここから左手の屈曲した市道を少しゆくと、その右手に大龍山東光院安国寺と称す浄土宗寺院の前に出る。この安国寺の開山僧はもと紀伊国熊野路大泊村安国寺の住職であった誠誉専故という僧で、安国寺記録によると寛正二年(一四六一)の没年を伝える。この先安国寺は熊谷蓮生法師(熊谷直実)の営む草庵であったが、暦応年間(一三三八~四二)足利尊氏が六十六国に各一寺を設けこれを安国寺と称したとき、当寺もその一つに指定されたという。

 その後同寺は衰退したが、たまたま専故上人が当地を訪れたとき、荒廃した安国寺をみてこれを惜しみ、寺を再興して当寺中興の開山僧になった。このとき上人は旧里熊野路大泊の地名をこの地の村名にしたという。しかし大泊の地名は船着場あるいは港という意味があるそうで、現在大泊と平方の地を画す利根川乱流時の河道相野川が古くは大川であり、当地がその船着場になっていたことから名付けられた地名とも考えられている。もっとも安国寺の寺号はおそらく開山僧専故上人が故郷の安国寺寺号をそのままここに移したともみられるが、もともと当寺は間久里の地に建てられていたという伝えもある。何時の頃か当所に移されたというがその理由などは不明である。

 江戸時代安国寺は岩槻浄安寺の末寺に位置ずけられ、古来からの由緒によって高四石の寺領を与えられた。寺領朱印状の交付は三代将軍家光の慶安元年(一六四八)のときからである。現在安国寺の裏手はことごとく住宅団地に開発されたが、もとは利根川乱流時の旧河道相野川をひかえ鬱蒼(うつそう)たる山林がつらなっていた。なかに一きわ高く天にそびえる「杖(つえ)振りの松」と称された松の大木があったが、これは徳川家康がこの松の木の下で杖を振り、寺の領地を示したことから名付けられたという。その他この松にはさまざまな伝説が残されていたが今はこの松もない。

 なお当寺には延文六年(一三六一)在銘の一尊板碑、天文九年(一五四〇)在銘の十三仏板碑をはじめ、蓮生法師の守仏といわれる阿弥陀の立像、元文年間(一七三六~四一)からの所有で寺宝として保存されている阿弥陀銅像一軀、宝暦年間(一七五一~六四)松浦肥前守の家臣石川義俊が、当寺に納めたと伝える紀貫之の作、柿本人麻呂木像一軀、揚柳観音坐像など円空仏の木仏三軀、その他歴代将軍の寺領朱印状や諸記録などの古文書、それに〝かねの音の 清きひゞきをもろびとのきゝまよいの雲は晴れける〟との歌が記されている山岡鉄舟直筆の画賛の掛軸などが秘蔵されている。さて安国寺に通じる道はかなり広い道幅で、両側には松の若木などが植えられているが中央は舗装されて安国寺の石摒まで続いている。入口前の市道に沿って享保六年(一七二一)の笠付青面金剛塔、天明八年(一七八八)の「新六阿弥陀五番」と刻まれた柱状型の標識塔、弘化四年(一八四七)の阿弥陀供養塔、宝暦二年(一七五二)の南無阿弥陀仏塔、寛政九年(一七九七)の青面金剛文字庚申塔、年代不詳の笠付六角六地蔵塔などがならべられている。舗装された道は石摒に突きあたり入口は鉄柵の扉となっている。扉の中は最近整理された境内地で樹木や雑草はきれいに伐り払われている。それでも広い空地のなかに一本の大銀杏が枝をひろげ、また庫裡(くり)の傍らに数株の樹木の茂みがあって僅かに境内地の趣を保っている。正面の瓦葺の本堂とそれに続く庫裡は昭和五十年に建て替えられたものであるが、それまでの本堂庫裡は幕末から明治にかけて名僧の誉が高かった、安国寺第二五世行誉宏善上人の再建になったものであるという。広い境内地の右手には、台石ごと五メートル余の大きな宝篋印塔がそびえるように建てられているが、この塔の前に慶応三年(一八六七)再立とある柱状型の南無阿弥陀仏塔がある。これには大杉村・上間久里村・下間久里村・大泊村、とあり四ヵ村の奉納供養塔であることが知れる。

 また宝篋印塔は明治四年五月の再建とあり台石には数えきれないほどの多くの寄進者名が刻まれている。この塔は大正十二年の震災に倒壊したが、その後セメントでつなぎ合わせ復原されたものであるという。この塔の後ろには鐘撞堂があるが、鐘は戦時中徴用されたままで堂だけが残されている。また境内左手の一角は鉄柵で囲まれた墓地になっているが、この中に台石ごと同じく五メートル余に及ぶ青銅の地蔵座像をいただいた巨大な塔が建てられている。これは明治二十五年に遷化した宏善上人の遺徳を偲び、同二十六年に造塔された宏善上人の供養墓塔である。この台石には現越谷市をはじめ、春日郡市・庄和町・松伏町・幸手町・杉戸町・大利根町など広範な地域の人びとがその資金を寄進したが、それらの人びとの名がすきまないほどに刻まれている。

 なお伝えによると、宏善上人は明治維新当時琴寄村(現大利根町)の豪農小林官吉宅を訪れていたが、たまたま打ちこわしの群衆が小林家を襲ってきた。このとき居合わせていた宏善上人が群衆の説得にあたったため小林家は難を遁れた。以来小林氏は宏善上人に深く帰依し、安国寺の再建には多額の喜捨を惜しまなかった。さらに小林氏は母屋の一部に特別な部屋を設け、宏善上人の木像を祀ってその参籠を怠らなかったという。

 さてこの宏善上人の墓塔の傍らに万人講によって奉納された安政六年(一八五九)の自然石による南無阿弥陀仏塔がある。この碑銘によると、安政五年七月、悪病が全国に蔓延し多くの人びとが病死したが、このとき当地域の人びとは安国寺に参籠し、昼夜をわかたず弥陀仏の名を奉唱して病魔の退散を祈った。このため当地域には悪病が入りこまなかったが、今さら仏の功徳に感じ入り碑を建立した旨が記されており、終りに〝人の身は あさきねさしの芝なれや しものおくにも かれぬはかりそ〟〝ミつせ川 わたりわつらふ人しあらハ 手火をしとりて しるへをハせん〟との宏善上人の歌が刻まれている。なお安政五年の悪病とはコレラ病の全国にわたる蔓延で、このとき一三代将軍家定もコレラに罹病し病死したといわれる。このコレラ病の故事が刻まれた南無阿弥陀仏塔のほか、二、三の供養塔などもみられるが、その年号などが判読できないので後の調査を待ちたい。なお墓地にはあまり古い頃の墓石はみあたらないが、なかに大正二年の筆子中とある卵塔墓石がある。おそらくこの墓の主は桜井小学校の教師であった住職であろう。

 ちなみに桜井小学校は明治十九年、平方学校・袋山学校・船渡学校が統合され、大泊安国寺に大泊小学校が開設されたが、同校は明治二十二年の町村合併で桜井小学校と改称された。同三十三年安国寺の傍らに独立校舎が建設された。これが現在の桜井小学校の前身である。

大泊安国寺
安国寺の円空仏
宏善上人像