せんげん台駅への道

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 安国寺と桜井小学校の裏手は、もと会野川河道跡に沿った山林と畑地であったが、現在はその多くが宅地に開発されたため、春日部市大枝、あるいは越谷市平方との境界が一見してわからなくなっている。これが昭和三十年代の航空写真でみると、旧河道跡が明瞭に浮き出ており、すぐそれと判明できる境界が形成されていたが、都市化のはげしい進行によりその地形さえも大きく変りつゝある。

 さて安国寺を出て石摒に沿った小道を左に折れていくと野原に出るが、この中に墓地がある。この墓地には堂舎はないが安国寺の塔頭(たつちゆう)寺東光院の跡である。大規模な墓地ではないが、なかに寛永十二年(一六三五)在銘の宝篋印塔墓石、それに宏善上人の造塔になる明治十六年の南無阿弥陀仏塔などがある。この墓地のすぐ向かいは宅地造成のための土盛り工事が進められているが、ここはちょうど大泊香取神社のすぐ裏手にあたっている。舗装された市道に沿って行くと香取神社や東光院跡、それに安国寺や桜井小学校がそれぞれかなり離れた個所にあるようだが、裏からみると実は一ヵ所にかたまって設置されていたことが知れる。

 東光院跡の墓地を後にし再び安国寺前の市道に出て進むと、左方の農家の屋敷林こしに四階建ての鉄筋の建物が見える。これは昭和四十年開校になる県立越谷北高等学校である。それから右に左に曲折した道を少し行くと、右手に桜井小学校、左手は公民館を併設している越谷市農協桜井支店である。ここはもと桜井村役場が設けられていた所であるが、旧庁舎は昭和四十八年に改築され桜井公民館と農協の建物になった。ここから工場や新興住宅の多くなる道を少し行くと、新方川とも称されているせんげん堀にさしかかる。ここに架せられた橋は念仏橋と称されるが、もとは丸木橋であり、大泊安国寺の住職がこの橋を渡るたびに念仏を唱えたことから名付けられたと伝える。

 この橋の左手は昭和五十年頃から造成された千間台ハイツの高層住宅を中心とした新興の住宅地、右手も春日部市大枝と境を接する密集した新興住宅地である。なお新方川は春日部市豊春地区からの農業排水路であるが、この故事来歴は千間堀の項で取り扱いたい。さて念仏橋から右手に通じる堤防上の舗装された道を行くと、国道四号線に出るが、この国道に出る右手の空地に大きな碑が建てられている。大正六年建碑になる新方領耕地整理竣功記念碑である。

 この新方領の耕地整理事業の地域は、南埼玉郡川通村・豊春村・武里村・大袋村・桜井村・新方村・荻島村・大沢町・粕壁町の二町七ヵ村にまたがる地域で、当時その規模と効果は全国一と評された耕地整理である。この整理計画は明治四十年に表面化したが、政治問題に波及し、反対派による激烈な反対運動が展開された。同四十二年ようやく着工し、七星霜を経て大正五年に竣功をみた。この総工費は一九万八〇〇〇余円、うち三万九〇〇〇余円が県費補助分であったがその結果は良好で四六〇〇余軒にのぼる新方領農民の恩恵は限りない程であった旨がこの碑に刻まれている。

 この耕地整理記念碑をみて国道に出ると、国道をへだてた右手は、昭和三十九年総工費一一五億円で完成した当時日本一の規模といわれた武里団地、左方はこの武里団地入居者のために昭和四十二年四月に開設された東武鉄道せんげん台駅である。駅名は駅の傍らを流れる千間堀にちなんで名付けられたものだが、せんげん台の台の意味は不明、もともとこの地帯は水田地域でとくに沼沢地のような深田が多かった所である。なおせんげん台駅西側の広大な水田地は、昭和四十五年から越谷市の区画整理事業の対象となり、次々と埋め立てられて区画されたが、現在住宅や商店の建物が少しずつ建ちはじめている。将来越谷のなかでも大きく変貌する地域の一つとなろう。北越谷発野田行東武バス松伏停留所から東武鉄道せんげん台駅までの行程およそ八キロメートル、多少疲れる道程であるが、車の往来も少なく農村気分をのんびりと満喫するには恰好のコースといえよう。

旧桜井村役場
新方領耕地整理記念碑
せんげん台駅前