平方村

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 越谷市の最北端平方は、古くは下総国新方庄のうち平方郷とも呼ばれたが、江戸時代は埼玉郡新方領平方村と称された。その村高は一、四二三石余、戸数は二〇四戸比較的大きな村であったが、その六七%にあたる一三四町歩が畑方、その余の六六町歩が田方という畑作地帯であった。しかし明治期から大正期にかけて多くの畑地の土が煉瓦の材料に利用され、その表土が掘り出されたが、そのあとは水田に利用されたためかなりの水田地が増えたといわれる。もともと平方の地形はちょうど兎の耳のような三角形であるが、これは現古利根川とかつての利根川乱流時の一河道跡会野川によって画されているためであり、自然堤防の発達した輪中の地ともなっていた。

 西は会野川河道跡を画して春日部市大枝・大畑・備後に接し、東は古利根川を画して春日部市藤塚・銚子口・赤沼(以上もとは北葛飾郡)に対している。平方の集落はこの会野川旧河道跡沿いと古利根川の河道沿いにつらなっており、南・横手・東・戸崎・山谷などの各組に分かれていた。そしてこれら集落に囲まれた中は一望さえぎるものがない広々とした一面の水田地であった。なお平方の地名は平たんな陸地とも解されているが、比較的平らな微高地から名付けられたとみられている。

 支配関係は徳川氏関東入国から幕末期まで一貫して幕府領であった。明治二十二年大泊や間久里の諸村と合併し桜井村の一部をなしたが、どちらかといえば粕壁宿とより関係が深い地であった。現在県道野田岩槻線のうち、南集落から山谷集落にかけての西部地域が宅地造成のはげしい個所である。現在の世帯数は一、八六六世帯(昭和五十四年十月現在)。

平方の耕地