林西寺

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 こうして車や人の往来もまばらな静かで落ち着いた道を進むと、道はカーブして三叉(さんさ)路になる。これを左に折れると道に面して黒摒の屋敷がみられるが、この家はもと平方の名主の一人であった中村家である。この先が京都智恩院末白龍山月照院林西寺という浄土宗寺院である。

 林西寺の開山僧は鎮西流藤田派の成阿等海和尚で、浄土宗鎮西流六派のうち随一をほこる藤田持阿の嫡流といわれるが、その創建年代はつまびらかでない。その後天正十二年(一五八四)に傑僧のほまれが高い然誉呑龍(どんりゆう)が林西寺の住職になっているが、この呑龍は林西寺の第九世といわれる。呑龍は平方の隣村一ノ割村(現春日部市)の住人岩槻太田氏の家臣井上将監の子で弘治二年(一五五六)の生まれ、一四歳のとき林西寺に入寺し剃髪(ていはつ)して曇龍と称した。その後貝塚村増上寺の学寮に入寮して修業を重ね、天正十二年には林西寺第九世の住職に任ぜられたが、同時に増上寺第一二世源誉存応(普光観智国師)のもとで学業に励み、慶長五年(一六〇〇)には武蔵国多摩郡滝山の大善寺に転昇した。

 同十六年徳川家康は徳川氏(得川氏)先祖の菩提寺として上野国新田郡太田の金山に大光院を創建したが、その開山僧として曇龍が招かれた。このとき名を呑龍と改めたという。呑龍はもともと慈悲深い僧であったが、とくに貧しい家の幼児を数多く引き取って親身にこれを養育した。このため後世「とり子」または「御弟子入り」ととなえ、幼児を呑龍上人の弟子として帳面上に名を記すと、上人の加護のもとで健全な成育が保証されるという信仰上の慣習がひろまり、太田大光院や平方林西寺がこの信仰上の中心になった。こうして「子育呑龍」の名は江戸時代を通じことに著名であった。

 また天正十九年当時呑龍が住職であった林西寺には寺領高二五石の朱印地が与えられたが、このとき寺領とは別に呑龍に対し高二五石の学問料が与えられたという。したがって呑龍は早くから徳川家康の親任を得ていたようである。呑龍は元和九年(一六二三)大光院において六八歳で遷化したが、この供養墓石が林西寺墓地にも建てられている。当寺には徳川家康をはじめ歴代将軍の寺領朱印状(市の文化財)その他林西寺日鑑などの古文書が多数秘蔵されている。

平方林西寺