林西寺の入口は車の駐車を防ぐためか鉄の小さな柵が張られているが、枝ぶりのよい数株の松の大木が山門に続いている。山門はさほど大きくはない。その柱などの一部も最近補修されたようにみうけられる。山門前に万延元年(一八六〇)の大きな文字庚申塔が置かれているが、三猿が刻まれた台石に「左赤沼渡シ場 右粕壁宿」と道しるべが付されているところから、この庚申塔はもと道角に立てられてあったものに違いない。山門をくぐった左手には、嘉永元年(一八四八)と天保四年(一七三三)の文字庚申塔、寛政十年(一七九八)の青面金剛庚申塔、天明八年(一七八八)の「新六阿弥陀四番」と刻まれた巡礼札所の標識とみられる石塔、宝永五年(一七〇八)と宝暦十三年(一七六三)の地蔵供養塔などがならべられている。その先に閻魔堂と一切経四〇〇巻などが納められている経堂があり、正面は瓦葺の本堂になっている。また石畳が敷かれた参道の右手、松の木の下には無縁仏の墓石が集めて置かれている。
左手の経堂わきの間から墓地に入るとその左側に年号不詳の宝塔型と貞享四年(一六八七)在銘の笠付角塔の大きな南無阿弥陀仏塔、それに続いて享保六年(一七二一)の笠付六地蔵塔、享保十一年の「善光寺四十八度参詣願成就」と刻まれた笠付の供養塔、明和三年(一七六六)の頭に地蔵像をいただいた敷石供養塔などがならべられている。墓地のなかには最近整地した土盛りの一段高い墓所があり、ここに林西寺歴代住職の卵塔墓石が元和九年に遷化した呑龍上人の供養墓石を中心としてその両側にならべられている。その他墓地にはあまり古い墓石やとくに目立った墓などはみあたらないが、とくに地蔵像を陽刻した墓石が多く目につく、これも子育呑龍の故事にちなんだ現象であったかも知れない。
この林西寺の裏側は樹木が伐り払われて林西寺経営になるまどか幼稚園になっている。その裏は古利根川の河原である。また林西寺前の道の先は、道をはさんで一団の新興住宅地になっている。その先に古利根川に通じる落とし堀があり、これを境に春日部市備後の地となる。つまりこの落とし堀は古い頃の利根川の一河道会野川の名残りであり、現在でも古利根川が増水すると浸水のおそれがあると聞く。ここから道は間もなく国道四号線(日光街道)に合わさる。