西楽寺跡と浅間神社

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 林西寺を後にして道を戻り、三叉路に出てこれを右に進むと、一筋の舗装道が直線となって古利根川に沿った集落と平行に走る。この道はもと道幅の狭い砂利道であったが、数年前に拡幅舗装されたもので県道平方東京線の一部である。暫く行くと火の見櫓がありその下に消防器具置場がある。その小屋の傍らに小さな不動の祠があり、その裏は墓地になっている。ちょうどその前の道をはさんだ反対側にトタン葺きの平屋がみえるが、ここはもと聖徳山西楽寺と称された林西寺の末寺跡であり現在地区の集会所に用いられている

 この集会所の前の畑地の中にも墓地があるが、この墓地の入口には享保二年(一七一七)造塔になる一部欠損した六地蔵が置かれている。この六地蔵のそれぞれの台石には、平方東組のほか大泊・船渡(以上越谷市)・備後・粕壁・壱ノ割・大枝・大畠・銚子口・藤塚・牛嶋(以上春日部市)新川・長沼・吸角・米嶋(以上庄和町)の各村が造塔者として名をつらねている。おそらく当時の西楽寺の住僧が積極的な活動家で広い範囲の村々から信仰を集めていたのかもしれない。また墓地の中には明治十年在銘の生徒中と刻まれた卵塔墓石があるが、この墓の主の僧は寺小屋の師匠であったのであろう。

 西楽寺跡を出て少し行き、右手に通じる砂利の小道をいくと道は間もなく落とし堀に沿った舗装道になるが、その先の水田の中に樹木に覆われた小高い丘が目に入る。ここが平方の総鎮守浅間神社である。この丘の一角は明治期の公図でみると、その地形から推して前方後円墳であるとみる人もいるがくわしいことは不明である。落とし堀に架せられたコンクリートの橋を渡ると石の幟立がありその先は広場になっている。瓦葺の神殿は丘の上に設けられているが、この神殿の昇り口は三道ある。このうち二道は石段である。

 石段の昇り口の前に石の鳥居が建てられているが、その傍らに文化十年(一八一三)の鳥居供養塔が立てられているので、この鳥居は文化十年の造立であることが知れる。また鳥居のそばに天保十年(一八三九)の石坂供養塔、嘉永七年(一八五四)と明治五年の御手洗石、そして丘の中復に大正八年の富士山登山記念碑や、天保十四年(一八四三)の「小御岳石尊大権現、大天狗小天狗」と刻まれた自然石の碑などが立てられている。

 このほか破損した石塔の片石が片隅に置かれているが、なかに明和七年(一七七〇)の「天満宮宝前」と刻まれた大きな棒状の丸石がある。これはおそらく鳥居の柱の一部とみられるが、当時この浅間社には天満宮も合祀されていたのかもしれない。神殿のある丘の上に昇ると誇張した言い方ながら平方の地が一望のうちに見渡せる。西方は水田地をへだてた畑地の中に、幾かたまりの住宅がいらかをつらねているのを見るが、東方は樹木のなかに昔ながらの集落の趣を保って農家が一列に点在しているのをみることができる。また西方と南方の水田地には高層建築が建てられている。このうち西方の建物は昭和五十二年の開校になる平方小学校、南方の建物は昭和五十三年の開校になる平方中学校である。こうして農村平方の地は西方から次第に都市化が進行しており大きな変貌をとげるのもそう遠い将来ではなかろう。

平方浅間神社