浅間神社を後にして道を県道に戻りそれから数十メートルほど行って創建社という木工工場わきの細道を入ると、平方東組の鎮守鹿島神社である。杉の木立で薄暗い境内の入口に、昭和九年造立になる花崗岩の鳥居がありその正面はトタン葺の小さな神殿である。その横裏に安永八年(一七七九)の普門品供養塔、天保九年(一八三八)と安政二年(一八五五)の文字庚申塔、寛政十年(一七九八)の青面金剛文字庚申塔、嘉永四年(一八五一)の水神宮塔などが置かれている。この裏は古利根川の河原である。河原に出るとこんもりした樹木に覆われた自然の堤防がはるかにつらなり、その下にひろがる雑草の間から古利根川の水がきらりと陽光に輝くのを見ることができる。
鹿島神社を出て車の往来が少ない県道を暫く進み、農家の間の細道を入るとまた神社がある。平方会野久保の鎮守香取神社である。ここも一株の欅の木を中心に杉や竹林に囲まれた薄暗い神域をなしている。その入口には朽ちかけた木の鳥居が建てられており、その両側に安永六年(一七七七)の青面金剛庚申塔と天保十三年(一八四二)の文字庚申塔が立てられている。神殿はやはりトタン葺きの小さな堂舎である。
ここからまた少し行くと、道は昭和五十二年開通になる国道四号バイパスと交差する。このバイパスを越えて少し行ったところの左手の畑地の中に墓地が見える。ここはもと稲荷山西光寺と称した寺院跡で、墓地のわきの農道の突き当たりが西光寺の本堂があったところであるが、現在トタン葺の集会所になっている。墓地は最近整地されたもので無縁仏墓石が一角に集められるとともに、家別の墓所も整然と区画された。墓地を入った右端に、寛政四年(一七九二)の大師像をいただいた南無阿弥陀仏供養塔をはじめ、文化九年(一八一二)の「諸願成就」とある十三仏を陽刻した珍しい供養塔や、文化二年(一八〇五)の笠付四角の六地蔵塔などが置かれているが、あまり古い墓石はみあたらない。
ここから農道ずたいに集会所の前に出るとその隣りは平方戸崎組の鎮守稲荷神社の境内地になっている。入口には昭和四十年の造立になる花崗岩の幟立と朽ちかけた木の鳥居が建てられている。参道は舗装されていてその参道の両側には、文化四年(一八〇七)の青面金剛文字庚申塔と嘉永元年(一八四八)の御手洗石、それに明治十四年の自然石による「御岳神社浅間大本宮」と刻まれた碑が立てられている。神殿は瓦葺の小さな社殿であるが、槇の木や杉それに篠竹などで覆われ、神域の趣を保っている。
また神社の先に宇田川姓の農家があるが、この家はもと平方村の名主の一人であり、江戸期から明治期にかけての村方文書を今でも大切に保存している。なおこの辺りの県道の前は、もと比較的規模の大きな雑木の山林で、かつてここに他殺死体が遺棄されて騒ぎになったこともあったが、現在は国道四号線の開発や住宅の建造などで、わずかな山林が残っているだけである。